約6万人の信者を擁するカトリック長崎大司教区のトップ・高見三明大司教は、自らも胎内被爆者だ。日本カトリック司教協議会の会長でもある自身と教会が、「戦争と平和」にどのように向き合ってきたかを尋ねた。 ――38年ぶりの教皇来日を長く要望してきました。 「(フランシスコ教皇着任直後の)2013年から司教協議会として招待の手紙を出し、謁見(えっけん)の際に要請してきました。昨年12月の謁見では『長崎に行きます。核兵器の非倫理性についてメッセージを出したい』とおっしゃっていました」 「かねて長崎は被爆地として広島の陰に隠れていると感じ、強いメッセージをぜひ長崎から発信してほしいと思っていました。ありがたいです」 ――ご自身も胎内被爆しています。 「祖母は8月9日の原爆投下で全身大やけどを負って皮膚がぞうきんのように垂れ下がり、15日に亡くなった。そのことを知ったのは最近です。少年時代は豊かなアメリカに憧れる、『普通の』少年でした」 「考えを深めたのは司祭になってから。留学や巡礼で外国を訪ね、世界で続く戦禍を身近に感じてからです。イスラエルは、パレスチナ人居住区との境界に一方的に巨大な分離壁を建設しました。01年の米ニューヨークの同時多発テロと、その報復としての米国のアフガニスタン攻撃にもショックを受けました。聖書の教えに『敵をゆるしなさい』、という有名な言葉があるでしょう。しかし現実には歯を1本折られたら3本折り返し、今度は3本折られたら5本折り返す……悪循環がずっと続いていくわけです。こうした経験が、長崎への原爆投下の歴史と向き合うことにつながっていきました」 ――16年前に長崎大司教に就いてから、県九条の会の呼びかけ人を務めるなど、平和について積極的に発言しています。 「2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議の際には、被爆して焼けただれた浦上天主堂のマリア像とともに訪米しました。写真や映像よりも、実物を見てもらう、現場に行くことが一番大事だと考えています。就任以降、信徒の中学生を広島に、高校生を沖縄に連れてゆき、平和学習をしています」 ――宗教者が、平和について積極的に発言する。その礎をつくった教皇がいたそうですね。 「第2次世界大戦後、教会の刷新を図って第2バチカン公会議を始めたヨハネ23世(在位1958~63年)です。私は大尊敬しています。軍備撤廃を唱え、抑止力も当時から否定しています。諸宗教との対話も進めました。平和について正しい考え方を伝える。それが宗教者の使命と思っています」 ――第2次世界大戦をめぐっては、当時の教皇はナチスによるユダヤ人虐殺を明確に非難しなかったとの批判もあります。 「教会の長い歴史の中で、戦争がない時代を探す方が難しい。かつては『正戦』という概念があり、教会が戦争を始めていました。2000年にヨハネ・パウロ2世が過去について神に許しを請うミサを行い、私もそれを違和感なく受け入れました」 ――日本のカトリック教会は戦後50年から10年ごとに司教団メッセージを出しています。歴史を振り返る難しさを感じる場面があったそうですね。 「長崎教区の歴史をひもとくと、戦時中は教会で『戦勝祈願ミサ』をやっていました。教会も戦争に加担していたのです」…
5 ans Il y a