生涯5000曲 夏の甲子園、あの歌生んだ作曲家の人生
夏の甲子園の大会歌「栄冠は君に輝く」、鎮魂の祈りを込めた「長崎の鐘」、そして数々の戦時歌謡。8月は戦前から戦後に活躍した作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)(1909~89)の調べが響く季節だ。昭和という時代を伴奏した古関の人生を考える。 作った曲は5千余り。流行歌、ご当地ソング、校歌……と様々ある中、今もインパクトがあるのはスポーツ曲だろう。 21歳で早稲田大学の応援歌「紺碧(こんぺき)の空」を、後に慶応大学の応援歌も手がけた。プロ野球では阪神の「六甲おろし」に、巨人の「闘魂こめて」。人を鼓舞する曲の力は、ライバル側も認めた。古関にとっての頂点は、1964年東京五輪開会式の「オリンピック・マーチ」。かつて世界を目指した古関の曲が世界へ羽ばたいた瞬間だ。 古関裕而研究家の齋藤秀隆さんは「原点にはクラシック音楽があり、常に憧れていた」と言う。「若い頃からハーモニカ用に編曲し力をつけた。その素養は応援歌やマーチで真価を発揮し、流行歌に格調を与えた」 ロシアの作曲家リムスキー・コルサコフに師事した金須(きす)嘉之進にも学び、英国の作曲コンクールでは2位となり話題に。後に流行歌の道へ進むが、クラシックへの思いはにじんだ。「蛍の光」の原曲を使い、閉店時のBGMとなった「別れのワルツ」。ユージン・コスマン管弦楽団の演奏でヒットしたが、編曲のユージンとは古関の別名だ。 古関の曲の力は、戦争にも利用された。戦意高揚のための時局歌、戦時歌謡の注文が相次いだのだ。自伝にこう書いた。「『紺碧の空』を手がけた男だから、勢いの上がる曲は得意だろうと(中略)私は仕事なのだとわり切って引き受け、時勢の流れにまかせていた」 勝って来るぞと勇ましく、と歌い出す「露営の歌」、予科練の「若鷲(わかわし)の歌」、銃後の姿を歌った「愛国の花」――。古関の曲とともに戦地へ赴いた若者たちがいた。戦後、当時を振り返り、「胸が痛みます」と痛切な表情で語る映像が残る。 近代日本音楽史家の戸ノ下達也さんは「自分がその時代に生きていたらどうしたか、と考えたい。古関には一貫して普通に生きる人々への視線があった」と話す。戦地へ赴く人、残される人への応援の思いだろう。 戦後はラジオドラマや舞台の世界で活躍し、人々を癒やした。戦争を経た古関の心情を映す曲がある。「長崎の鐘」だ。悲しみにくれるような短調から高らかな長調に転じていく。新しい時代への祈りのように。 その音楽は故郷にも息づく。デビュー曲は、「福島夜曲」と「福島行進曲」。母校の福島商業高校をはじめ、校歌や新民謡も数多く作った。福島市の名誉市民第一号となり、JR福島駅前のオルガンを弾く古関の銅像からは定時に代表曲は流れる。 「東日本大震災の時に生きていらしたら、多くの曲を作っていたでしょう」と福島市古関裕而記念館の氏家浩子学芸員。同館では今もオルガンの伴奏で古関の曲を歌う会がにぎわう。「詳しい小学生もいて、アイドルみたいですよ」 8月の「福島わらじまつり」で流れる「わらじ音頭」。50回を迎えた今年、震災以降に福島の文化を発信するプロジェクトを手がける音楽家・大友良英さんが編曲を手がけ、次代へと続く新たな命が吹き込まれた。 来春には古関をモデルにしたNHKの朝の連続テレビ小説「エール」の放送も始まる。今も古関は故郷を盛り上げ続けている。(西正之) 共演した経験があるタレント・萩本欽一さんの話 「オールスター家族対抗歌合戦」という番組で、僕は司会、古関先生は審査委員長として12年間お付き合いしました。歌そのものより家族の姿を講評されてましたね。…