早くも動き出した原発回帰 「二度壊された」福島からの疑問

記者コラム 「多事奏論」 編集委員・中川透 事件や事故が起きたらまず現場へ。記者の仕事の基本だが、東京電力福島第一原発事故のときだけは勝手が違った。 事故前後の3年あまり、私は福島総局で働いていた。原発で爆発が起き、沿岸部へは近づけない。国の出す避難指示区域が次々と広がる。総局のあった福島市内は電話が通じず取材もままならない。最前線の地にいる身ながら、原発の状況を伝える枝野幸男官房長官(当時)の会見のテレビ中継にかじりつく日々。無力感に包まれ、福島県はこの先どうなるのか、とぼうぜんとしたことを思い出す。 あれから13年。日本がこんなに早く、原発の「最大限活用」へ動きだすとは思わなかった。政府は昨年、脱炭素社会へ移行する「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」の実現を理由に、方針転換の戦略を決めた。聞こえのよい言葉だが、ふるさとを奪われた福島の人たちには、どう映るだろうか。 「唐突な原発回帰に驚いた…この記事は有料記事です。残り1023文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこどもと被災地東日本大震災が起きてからの13年という月日は、子どもが大人へと成長するほどの長さです。それぞれの土地で暮らす子どもたちの物語。[もっと見る]Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

病気休暇中にフィリピン旅行、小学校教諭を処分 大阪・堺市教委

井石栄司2024年3月11日 18時15分 堺市教育委員会は8日、病気休暇の申請期間中に海外旅行に行っていたなどとして、市立小学校の男性教諭(24)を減給10分の1(3カ月)の懲戒処分にしたと発表した。教諭は依願退職したという。 市教委によると、教諭は昨年7月から9月にかけて病気で休んだ。しかしこの期間中の8月10~16日、主治医の許可を得ずに、友人とフィリピン旅行に行っていた。職場復帰後の昨年10月、同僚に「夏休みに海外旅行に行った」と話したことから発覚した。 教諭は「仕事には行けないが、旅行なら行けると判断した。仕事に行っていないので管理職への報告は必要ないと思った」と話したという。 このほか、今年1月には「研修に参加する」と言って実際は帰宅したのに、研修に参加したという虚偽の出張申請をした。 市教委はまた、のぞきや盗撮の目的で昨年9月、市内の住宅敷地内に侵入したとして住居侵入の疑いで大阪府警中堺署に今年1月に逮捕された市立小学校の男性教諭(48)を懲戒免職処分にした。10年ほど前から同様の行為を繰り返していたという。(井石栄司)有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

飼っていた四国犬が児童らにけがさせた疑い、夫婦を書類送検 群馬県

杉浦達朗2024年3月11日 14時30分 群馬県伊勢崎市の公園で2月、小学生らが四国犬にかまれてけがをした事件で、県警は11日、四国犬7頭を飼っていた同市の会社役員の男(62)と妻(57)を、過失傷害や狂犬病予防法違反などの疑いで書類送検し、発表した。いずれも容疑を認めているという。事件を起こした四国犬は、昨年にも小学生にけがをさせていたことも判明した。 伊勢崎署などによると、男の送検容疑は、狂犬病予防注射を7頭に受けさせておらず、そのうち4頭は市に飼育の登録もしていなかった▽2月7日に脱走した2歳のオスが西部中央公園にいた児童ら7人にけがをさせた、というもの。妻はこの事件に加え、昨年12月13日にも同公園でこのオスのリードを放してしまい、遊んでいた女児をかんでけがをさせた疑いもある。 県警は、夫婦が7頭を自宅の庭で放し飼いにしていたことから、柵の設置以外に鎖でつなぐといった脱走防止策をしていなかったとみている。加えて、4頭が市に未登録だったことや狂犬病予防注射をしていなかったこと、過去にも他人にけがをさせていたことなどからも、悪質性が高いと判断しているという。 市によると、昨年末と2月に児童らを襲ったオスは狂犬病検査で陰性だった。7頭は事件後に予防接種を受け、夫婦から第三者へ譲渡されたという。(杉浦達朗)有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

早期英語教育「最大の課題」は 子どもが「話せる」ために必要な視点

有料記事聞き手・塩入彩2024年3月11日 15時00分 学校、趣味、学び直し……。「学ぶ」「教える」の現場にいる方に取り組みや魅力を聞く「楽問(がくもん)のススメ」を始めます。NPO法人早期英語教育研究会理事長 羽織愛さん 東京都内で子ども向けの英語教室を運営するとともに、2019年にNPO法人早期英語教育研究会(EEYC)を設立しました。保護者向けの英語絵本読みワークショップや、学童での英語アクティビティー、全国の塾や小中学校の英語教師との勉強会などを開催しています。 「日本の英語教育を変えたい」という思いがあります。大学時代の恩師で英語教育学者の故・若林俊輔先生は、「日本の英語教育は、主に教える側に問題がある」とおっしゃっていました。その影響を受け、「教える側の知識と技術を上げ、日本の子どもたちが英語を話せるようになる教え方を確立したい」と取り組んできました。また、自分の教室に限らず、全国の子どもたちが英語を話せるようになってほしいと思い、EEYCの活動を始めました。記事後半では、英語教育に取り組む際の注意点なども紹介しています 日本の早期英語教育の最大の…この記事は有料記事です。残り1294文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

【速報中】東日本大震災から13年 慰霊碑に花 手を合わせる人々

 東日本大震災の発生から11日で13年。大切な人を失った悲しみや郷里への思いを抱えながら祈りを捧げます。かけがえのない日常と「次」への備えについて考える、そんな一日に。各地の動きをタイムラインでお届けします。■■■3月11日■■■14:46輪島朝市で元店主ら黙禱「能登も東北のように必ず復興」 能登半島地震で「輪島朝市」の店舗など200棟以上が焼けた石川県輪島市河井町でも、午後2時46分、元店主らが東日本大震災の被災地の方角を向いて約1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。 朝市通りでラーメン食堂を営んでいた板谷吉生さん(48)は、「東北の人たちが体験した13年前の大変さに、思いをはせた」。自身の家や店舗は全焼したが、「能登も東北のように必ず復興できると、気持ちを新たにしました」と話した。14:30大船渡で「祈りのモニュメント」除幕式 岩手県大船渡市が整備を進めてきた東日本大震災の追悼施設「祈りのモニュメント」の除幕式があった。 モニュメントは横1・7メートル、高さ2メートルで、ガラス素材でつくられた。「未来へ祈る」などとメッセージが刻まれた。 震災の記憶を風化させることなく、未来への教訓とするという思いをこめている。13:30浪江町の海岸で行方不明者を捜索「少しでも手がかりを」 福島県浪江町請戸の海岸で、県警と地元消防の約40人が行方不明者の捜索をした。町によると、町内では津波で150人が亡くなり、今も31人が行方不明だという。 警察官らは一列に並んで砂浜を掘り起こし、骨片や漂流物など行方不明者の手がかりを捜した。 秋田県警から福島県警に特別出向で1年間来ている船木駿巡査部長(34)は「自分たちよりも困っている福島のために働きたい」と出向を希望したという。船木さんは「ご遺族の方のためにも、少しでも手がかりを見つけたい」と話した。 この日は同県富岡町仏浜でも、県警など約40人が捜索にあたった。県警によると、県内での行方不明者は196人という。12:15 宮城県名取市閖上の災害公営住宅の集会室で、追悼のつどいが開かれた。「天にとどけ 閖上の祈り」と書かれた紙の上に、今年は「能登半島地震」の文字もある。 手を合わせた高橋春子さん(88)は、「地震のニュースを見て、13年前ああだったと思い出した。苦労は私らと同じ。元気でがんばって」と思いを込めた。 閖上地区は津波で大きな被害を受け、住民はかさ上げされた新しい市街地で暮らす。6階建て災害公営住宅は高齢者が多い。つどいは住民と支援者らが久々に集まる機会で、皆でトランプを楽しむなどしていた。11:35JR石巻線で避難訓練「何が起きてもお客様を無事に」 宮城県女川町のJR石巻線で、JR東日本東北本部による避難訓練があった。運転士は2両編成の列車を停車させると、「津波です! 率先避難者について、指定避難場所に向かってください!」と、車内のスピーカーで呼びかけた。 震度6強の想定。運転士と車掌の指示で、乗客役の社員らは列車のドア枠に腰かけてから車外に飛び降り、「率先避難者」役の男性に連なって約200メートル離れた高台の指定避難場所に移動した。 防災責任者の蓬田(よもぎだ)祐史(ゆうじ)安全企画ユニットリーダーは閉会式で、「東日本大震災を経験したからには、あれ以上の地震や津波が起きても、『想定外』という言葉は使えない。なにが起きてもお客様を無事に避難させられるように、『1分1秒でもはやく、遠くに高く』を心がけてほしい」と語りかけた。11:30宮城県の村井知事「真の笑顔を取り戻すまで諦めることなく」 宮城県の村井嘉浩知事は記者会見で、発災から13年を振り返り、「県の力だけではなく、国の力を借り、市町村の力をあわせて被災者にできるだけ寄り添った対応を心がけてきた」と語った。 村井氏は、インフラなどハードの整備はほぼ終わったという認識を示した一方、「いまだ心のケアを必要とされる方もいる。被災者のみなさんが真の笑顔を取り戻すまで、みんなで力をあわせて最後まで諦めることなく対応し続けて参りたい」と語った。 元日に起きた能登半島地震については、復旧・復興の人手が足りていない点を指摘し、「かなり長丁場になると思うが、引き続き、石川県並びに富山県、そして能登町への支援を継続していきたい」と述べた。11:00白河市の慰霊碑、遺族らが手を合わせる 土砂崩れで13人死亡 東日本大震災の地震で土砂崩れが起き、13人が亡くなった福島県白河市の葉ノ木平地区では、地震後に整備された震災復興記念公園で午前11時から犠牲者追悼供養のつどいが営まれ、遺族ら約50人が慰霊碑に手を合わせた。 当時小学2年だった酒井美緒さん(21)は一緒に住んでいた祖母、祖父、叔父の3人を亡くした。避難所生活で支えてもらった経験から看護師をめざし、22日に合格発表を控えている。 この日は慰霊碑に花を供え、「私がんばってるよ。応援してね」と3人に話しかけた。将来は災害派遣医療チーム(DMAT)で、自身の経験をいかしたいと思っている。「今度は私が支える立場になって、困っている人たちを助けたい」10:35浪江町の請戸小学校に多くの見学者 震災遺構として保存されている福島県浪江町の町立請戸小学校には、朝から多くの見学者が訪れた。 請戸地区は15メートルを超える津波に襲われ、請戸小学校は校舎2階の床上10センチほどが浸水したとされる。天井や壁ははがれ落ち、鉄筋もひしゃげている。 地区では約150人が犠牲になったが、子どもたちは近くの高台に逃げて無事だった。 福島市から来た堀金千紗さん(3)は母親の朋子さん(30)に「ここにいた子たちはどうなったの?」「どうしてぐしゃぐしゃになっているの?」などと質問していた。 高校生の時に震災を経験した朋子さんは「子どもは地震が起きたら津波が来るかも、ということはもう理解しているみたい。これからも、本人が興味を持った時に、防災のことを教えていきたい」と話した。10:30原子力規制委員会の委員長が訓示「原子力に100%の安全はない」  東京電力福島第一原発の事故を受けて発足した原子力規制委員会では、山中伸介委員長が、職員ら約150人に訓示をした。「あのような事故を二度と起こさないために、原子力に100%の安全はないということを肝に銘じながら、常に科学技術に基づいた判断をしてください」と述べた。 山中委員長は能登半島地震についても触れ、「日本では地震や津波、さまざまな自然災害は避けることができない。どのような自然災害に対しても、二度と福島第一原発のような事故を起こしてはならない」と話した。 福島第一原子力規制事務所長の小林隆輔さんも登壇し、処理水の放出開始などこの1年間の作業の進捗(しんちょく)などについて報告した。作業員の身体汚染や汚染水の漏洩(ろうえい)などトラブルが相次いだことについて「組織体として何を行うべきか、いま一度しっかり考える必要がある」と強調した。10:17津波で妹を亡くした女性「私が妹に今してあげることだから」 157人が亡くなった仙台市宮城野区蒲生地区にある「なかの伝承の丘」では、近くの誓渡寺(せいとうじ)や京都市の妙心寺の僧侶が法要を開いた。かつての住民ら約30人が参加し、祈りを捧げた。 法要に参加した宮城県塩釜市の氏家清子さん(75)は蒲生地区で、津波から車で逃げていた妹(当時57)を亡くした。当時は、津波が到達した夕方の時間帯になると、涙が止まらなかった。 「今も3月11日の夕方は涙が出てくる。でも、私が泣いてたら、妹は安心して眠れないから、笑顔を心がけています」 震災から13年の時が経ち、参加者は年々減っているという。それでも、氏家さんは「腰が曲がってでもくる。それが、私が妹に今してあげられることだから」。10:03減る月命日の墓参 大槌町の夫婦「彼岸だけにしようかと」 岩手県大槌町の佐々木徳志さん(73)が妻と同町安渡の墓地を訪れた。震災で亡くなった母のナツさん(当時84)と親類に手を合わせた。 ナツさんは高台に避難したが、津波に流され、大槌湾内の蓬萊島付近で見つかった。墓は、その島を望む丘にある。 「優しくて、字も達筆で裁縫もうまい母でした」 月命日に墓参りに訪れる人が減っている。佐々木さんも「先に死んだ父が、なぜ俺の命日には来ないんだと怒りそうなので、(墓参りは)彼岸だけにしようかと思っている」と話した。10:00南三陸町の海岸で行方不明者の捜索を開始 宮城県南三陸町の泊漁港の海岸で、宮城県警南三陸署員ら10人が、行方不明者を捜索した。 震災後に警察官になったという巡査長は、今回が2度目の捜索。沿岸部の署に配属されることが多く、地域を回る中で震災当時の住民の話を多く聞いた。 「少しでも行方不明者の手がかりを発見できればという思い。丁寧に捜索したい」 県によると2023年9月時点で、南三陸町では211人の行方不明者がいる。 南三陸署の大山栄太地域課長は「捜索の環境は年々厳しくなっているが、帰りを待つ方々の気持ちは変わらないはず」と話した。10:00今も415人が行方不明 大槌町の海岸で捜索を開始 岩手県大槌町吉里吉里の小久保海岸では、岩手県警釜石署と釜石海上保安部などの約40人が行方不明者の捜索を始めた。町内では今も415人が行方不明のままだ。 今回初めて、ドローンを使った捜索を実施。釜石署の田中洋二署長は「今まで見られなかったところを、広範囲に見ることができる」と話した。09:00慰霊に来られない人の代わりに手を合わせ 女川 宮城県女川町の精神保健福祉士、内海章友(あきとも)さん(49)は町の慰霊碑前で手を合わせた。慰霊に来られない人の代わりに、そして自分のために。 公営住宅で一人暮らしをする高齢者のもとを仕事で訪れると、「つらくて慰霊には行けない」との声を多く聞く。 内海さんのおばもその一人だ。町内で、夫やその親族を亡くし、今は隣の石巻市に住む。「代わりに手を合わせてきて」。そう言われ、毎年慰霊碑に通う。 「スーパーができ、列車が通って、普通に暮らしているように見えても、みんなまだ傷ついている」 慰霊は、内海さん自身の気持ちに「区切り」をつけるためでもある。震災直後、地面に横たわる遺体を横目に、両親を探しまわった。その後7年間、耳の不自由な両親と、実家の石巻市から東京都内に避難した。 職を見つけて女川町に戻ってきたが、「ひどいことをした」「自分だけ逃げてしまった」という気持ちにさいなまれ続けた。 今後は女川、石巻で一生を終えたいという。 「この地に残った人が少しでも生きやすくなるよう、見届けたい。それが生きた人の務めだと思うんです」09:00「今も寂しいまま」 慰霊碑に記された名前を手でなで 石巻市 「おばあさん、おじさん、また来たよ」 宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園で、今川栄子さん(61)と夫房一さん(66)が、慰霊碑に記された祖母の斉藤咲子さん、叔父の斉藤忠一さんの名前を手でなでた。 おおらかでおしゃべり好きな祖母は、90歳を過ぎても社交的な人だった。北上地区にある自宅にいて、津波にのまれた。迎えに行った叔父も犠牲になった。 今川さん夫妻は当時、雄勝地区に住んでいた。自宅は全壊したが、たまたま用事で仙台に出かけており、無事だった。 自宅は石巻市街地の近くに再建した。散歩で祈念公園の近くを通ると、必ず慰霊碑に立ち寄る。 「気持ちは今も寂しいまま。もっと色々なことがしたかった。一緒に旅行にも行きたかった」08:00「教訓を発信し続ける」 大槌町の旧役場庁舎跡地、職員と遺族が献花と祈り 岩手県大槌町の旧役場庁舎跡地では、町の幹部職員ら約20人と遺族6人が、献花と祈りを捧げた。 震災で、当時の加藤宏暉町長を含む職員40人が犠牲になった。屋上に避難して助かった平野公三町長は、「あの日のことを1日たりとも忘れることはない。犠牲となった尊い命を失うことになった教訓を発信し続けることが私の使命だ」と語りかけた。だが、震災の語り部育成はうまく進んでいない。 事態を重くみた平野町長は今月9日、町主催の震災伝承講座で急きょ講話をすることにして、初めて自らの体験を町民に語った。 そして、この日の献花後、記者団に「職員の間でさえ、当時を語り合うことはしていない。被災者の体験集を制作したい」と述べた。08:00「ごめんね」 南三陸町の旧防災対策庁舎を訪れた町職員の思い 宮城県南三陸町の町職員、高橋彩さん(37)は、町内の旧防災対策庁舎を訪れた。町民に避難を呼びかけていた職員らが津波に襲われ、43人が犠牲となった場所だ。同僚で友人の遠藤未希さんも亡くなった。 「自分ばっかり生きててもなあ。ごめんね」。そんな思いがあるのもまた事実だ。 旧防災庁舎は、解体か保存かで意見が分かれた。県有化して判断を先送りしてきたが、震災13年を前に、町が震災遺構として保存する方針が決まった。 高橋さんは「職場がそこにあって、思い出の場所であったことは、(旧防災庁舎の)骨組みがあっても、なくても変わらない」。07:30上川外相「政府の一員として復興に全力尽くす」 「13年前のきょう、東日本大震災が発災し、多くのみなさまが亡くなられた。心からお悔やみを申し上げます」。上川陽子外相は東京・大手町での講演で東日本大震災に触れた。経団連との懇談会で、十倉雅和会長をはじめ企業トップらに経済外交や海外でのビジネスのサポート態勢の強化などを語ったが、震災から話を切り出し、「被災されたみなさまがいま、復旧に向けて、復興に向けてがんばっていらっしゃる。私も政府の一員として、全力でこれにつくしていきたい」と続けた。06:58仙台市の荒浜にホラ貝の音 同僚ら失い、山伏に 190人が亡くなった仙台市若林区の荒浜で、山伏の園部浩誉さん(58)が海岸線を歩き、ホラ貝を鳴らしていた。 保険会社に勤務し、2010…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

処理水放出に「互いを尊重して」 マーシャル諸島大統領インタビュー

 冷戦期、米国の核実験場にされた太平洋・マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ大統領(72)が、朝日新聞などのインタビューに応じた。70年前にビキニ環礁で実施された水爆実験では、同国の住民や日本の漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びた。核兵器に反対する国として日本に連帯を求める一方、東京電力福島第一原子力発電所からの処理水放出には注文も付けた。 ハイネ大統領は10日に来日し、14日まで滞在する予定。インタビューは4日、マーシャル諸島の首都マジュロで行った。 ――マーシャル諸島では1946~58年、米国が67回の核実験を行い、被害が残っています。 「土地を住めるようにし、人びとの健康を守る責任は核実験をした米国にありますが、被害を回復するための補償は足りていないのが現状です」 「日本は、広島、長崎、第五福竜丸、福島と核被害を経験しています。日本が学んだことを、マーシャルの人びととも共有してほしいです。お互いに核の影響で、物理的にも精神的にも被害を負ってきた国です。共に助け合い、核武装や核拡散に反対する立場を強めていきましょう」 ――近年は気候変動による海面上昇でも危機に直面しています。 「温室効果ガス排出量は世界の中で少ないにもかかわらず、私たちにどうやって気候変動と闘えと言うのですか。排出を抑えて、気候変動をコントロールしなければいけないのは大国です。行動を起こさなければいけないのは、私たちではない」 ――マーシャル諸島の国会は昨年3月、日本が福島第一原発の処理水の海洋放出を計画していることに、深い懸念を表明する決議を可決しました。 「太平洋は歴史的に欧米の核実験場にされてきました。決議では『太平洋に放出するより、安全な代替策を検討するよう強く要請する』などと立場を伝えました。放出してほしくありませんでしたが、実際に始まってしまいました。本来なら、始まる前にもっと相談してほしかった。お互いを尊重し、話し、視点を共有する必要があったはずです」 「両国の間には長い歴史があり、友だちであらねばなりません。だからと言って、全てで意見が一致しているという意味ではない。本当の友とは、意見が合わない時こそ話し合えるものでしょう」 ――マーシャル諸島は現在、核兵器禁止条約に署名していません。 「私は1日にあった核被害者の追悼式典で、支持はするけど、署名・批准には至らないという明確な立場を示しました。条約を核兵器廃絶を目指す一つの考え方として支持します。でも、マーシャル諸島が抱える課題を条約の方が支持してくれていると思えない」 「第6条の『被害者に対する…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

イカナゴ新子漁解禁、不漁と向き合い 播磨灘 大阪湾は初の休漁に

熊谷姿慧 鈴木春香2024年3月11日 12時01分 春の訪れを告げるイカナゴ新子漁が11日、兵庫県の播磨灘で解禁された。近年、深刻な不漁が続き、播磨灘と大阪湾で統一の解禁日を定めるようになった1993年以降、大阪湾では初の休漁に。播磨灘でも早期に休漁となる可能性がある。 この日夜明け前、林崎漁港(明石市)から8隻が出航。午前11時前の水揚げ分はさっそく競りに出され、25キログラム約17万円の値段がついた。不漁のため大きく高騰しており、仲買人は「聞いたことのない価格」と話した。 兵庫県内のイカナゴの漁獲量は2016年までほぼ毎年1万トン以上だったが、17年から急減。20年は142トンで過去最低を記録し、23年も1209トンだった。兵庫県水産技術センターによると、海中の栄養が減ったことや水温の上昇が原因とみられるといい、今年も昨年以上の不漁が見込まれている。 大阪湾を漁場とする摂津船びき網漁業協議会は、資源を守るため休漁に踏み切った。前田勝彦会長(57)によると、漁業者の中でも休漁とするかどうか意見が分かれたという。前田会長は「苦渋の決断だった。今年の漁獲量は(過去最低だった)20年並みか、それを下回るのではないか」と話す。(熊谷姿慧、鈴木春香)有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

【速報中】東日本大震災から13年 大槌町長「教訓発信し続ける」

 東日本大震災の発生から11日で13年。大切な人を失った悲しみや郷里への思いを抱えながら祈りを捧げます。かけがえのない日常と「次」への備えについて考える、そんな一日に。各地の動きをタイムラインでお届けします。■■■3月11日■■■10:30原子力規制委員会の委員長が訓示「原子力に100%の安全はない」  東京電力福島第一原発の事故を受けて発足した原子力規制委員会では、山中伸介委員長が、職員ら約150人に訓示をした。「あのような事故を二度と起こさないために、原子力に100%の安全はないということを肝に銘じながら、常に科学技術に基づいた判断をしてください」と述べた。 山中委員長は能登半島地震についても触れ、「日本では地震や津波、さまざまな自然災害は避けることができない。どのような自然災害に対しても、二度と福島第一原発のような事故を起こしてはならない」と話した。 福島第一原子力規制事務所長の小林隆輔さんも登壇し、処理水の放出開始などこの1年間の作業の進捗(しんちょく)などについて報告した。作業員の身体汚染や汚染水の漏洩(ろうえい)などトラブルが相次いだことについて「組織体として何を行うべきか、いま一度しっかり考える必要がある」と強調した。10:17津波で妹を亡くした女性「私が妹に今してあげることだから」 157人が亡くなった仙台市宮城野区蒲生地区にある「なかの伝承の丘」では、近くの誓渡寺(せいとうじ)や京都市の妙心寺の僧侶が法要を開いた。かつての住民ら約30人が参加し、祈りを捧げた。 法要に参加した宮城県塩釜市の氏家清子さん(75)は蒲生地区で、津波から車で逃げていた妹(当時57)を亡くした。当時は、津波が到達した夕方の時間帯になると、涙が止まらなかった。 「今も3月11日の夕方は涙が出てくる。でも、私が泣いてたら、妹は安心してできない眠れないから、笑顔を心がけています」 震災から13年の時が経ち、参加者は年々減っているという。それでも、氏家さんは「腰が曲がってでもくる。それが、私が妹に今してあげられることだから」。10:03減る月命日の墓参 大槌町の夫婦「彼岸だけにしようかと」 岩手県大槌町の佐々木徳志さん(73)が妻と同町安渡の墓地を訪れた。震災で亡くなった母のナツさん(当時84)と親類に手を合わせた。 ナツさんは高台に避難したが、津波に流され、大槌湾内の蓬萊島付近で見つかった。墓は、その島を望む丘にある。 「優しくて、字も達筆で裁縫もうまい母でした」 月命日に墓参りに訪れる人が減っている。佐々木さんも「先に死んだ父が、なぜ俺の命日には来ないんだと怒られそうなので、(墓参りは)彼岸だけにしようかと思っている」と話した。10:00南三陸町の海岸で行方不明者の捜索を開始 宮城県南三陸町の泊漁港の海岸で、宮城県警南三陸署員ら10人が、行方不明者を捜索した。 震災後に警察官になったという巡査長は、今回が2度目の捜索。沿岸部の署に配属されることが多く、地域を回る中で震災当時の住民の話を多く聞いた。 「少しでも行方不明者の手がかりを発見できればという思い。丁寧に捜索したい」 県によると2023年9月時点で、南三陸町では211人の行方不明者がいる。 南三陸署の大山栄太地域課長は「捜索の環境は年々厳しくなっているが、帰りを待つ方々の気持ちは変わらないはず」と話した。10:00今も415人が行方不明 大槌町の海岸で捜索を開始 岩手県大槌町吉里吉里の小久保海岸では、岩手県警釜石署と釜石海上保安部などの約40人が行方不明者の捜索を始めた。町内では今も415人が行方不明のままだ。 今回初めて、ドローンを使った捜索を実施。釜石署の田中洋二署長は「今まで見られなかったところを、広範囲に見ることができる」と話した。(小泉浩樹)09:00慰霊に来られない人の代わりに手を合わせ 女川 宮城県女川町の精神保健福祉士、内海章友(あきとも)さん(49)は町の慰霊碑前で手を合わせた。慰霊に来られない人の代わりに、そして自分のために。 公営住宅で一人暮らしをする高齢者のもとを仕事で訪れると、「つらくて慰霊には行けない」との声を多く聞く。 内海さんのおばもその一人だ。町内で、夫やその親族を亡くし、今は隣の石巻市に住む。「代わりに手を合わせてきて」。そう言われ、毎年慰霊碑に通う。 「スーパーができ、列車が通って、普通に暮らしているように見えても、みんなまだ傷ついている」 慰霊は、内海さん自身の気持ちに「区切り」をつけるためでもある。震災直後、地面に横たわる遺体を横目に、両親を探しまわった。その後7年間、耳の不自由な両親と、実家の石巻市から東京都内に避難した。 職を見つけて女川町に戻ってきたが、「ひどいことをした」「自分だけ逃げてしまった」という気持ちにさいなまれ続けた。 今後は女川、石巻で一生を終えたいという。 「この地に残った人が少しでも生きやすくなるよう、見届けたい。それが生きた人の務めだと思うんです」09:00「今も寂しいまま」 慰霊碑に記された名前を手でなで 石巻市 「おばあさん、おじさん、また来たよ」 宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園で、今川栄子さん(61)と夫房一さん(67)が、慰霊碑に記された祖母の斉藤咲子さん、叔父の斉藤忠一さんの名前を手でなでた。 おおらかでおしゃべり好きな祖母は、90歳を過ぎても社交的な人だった。北上地区にある自宅にいて、津波にのまれた。迎えに行った叔父も犠牲になった。 今川さん夫妻は当時、雄勝地区に住んでいた。自宅は全壊したが、たまたま用事で仙台に出かけており、無事だった。 自宅は石巻市街地の近くに再建した。散歩で祈念公園の近くを通ると、必ず慰霊碑に立ち寄る。 「気持ちは今も寂しいまま。もっと色々なことがしたかった。一緒に旅行にも行きたかった」08:00「教訓を発信し続ける」 大槌町の旧役場庁舎跡地、職員と遺族が献花と祈り 岩手県大槌町の旧役場庁舎跡地では、町の幹部職員ら約20人と遺族6人が、献花と祈りを捧げた。 震災で、当時の加藤宏暉町長を含む職員40人が犠牲になった。屋上に避難して助かった平野公三町長は、「あの日のことを1日たりとも忘れることはない。犠牲となった尊い命を失うことになった教訓を発信し続けることが私の使命だ」と語りかけた。 平野町長は震災10年目となる2021年のこの日、旧庁舎を解体する一方、旧庁舎前で何らかの施設整備をすると犠牲者に向かって約束した。 だが、2025年7月の完成に向けて整備中の施設の内容はいまだに決まっていない。震災の語り部育成もうまく進んでいない。 事態を重くみた平野町長は今月9日、町主催の震災伝承講座で急きょ講話をすることにして、初めて自らの体験を町民に語った。 そして、この日の献花後、記者団に「職員の間でさえ、当時を語り合うことはしていない。被災者の体験集を制作したい」と述べた。08:00「ごめんね」 南三陸町の旧防災対策庁舎を訪れた町職員の思い 宮城県南三陸町の町職員、高橋彩さん(37)は、町内の旧防災対策庁舎を訪れた。町民に避難を呼びかけていた職員らが津波に襲われ、43人が犠牲となった場所だ。同僚で友人の遠藤未希さんも亡くなった。 「自分ばっかり生きててもなあ。ごめんね」。そんな思いがあるのもまた事実だ。 旧防災庁舎は、解体か保存かで意見が分かれた。県有化して判断を先送りしてきたが、震災13年を前に、町が震災遺構として保存する方針が決まった。 高橋さんは「職場がそこにあって、思い出の場所であったことは、(旧防災庁舎の)骨組みがあっても、なくても変わらない」。07:30上川外相「政府の一員として復興に全力尽くす」 「13年前のきょう、東日本大震災が発災し、多くの多くのみなさまが亡くなられた。心からお悔やみを申し上げます」。上川陽子外相は東京・大手町での講演で東日本大震災に触れた。経団連との懇談会で、十倉雅和会長をはじめ企業トップらに経済外交や海外でのビジネスのサポート態勢の強化などを語ったが、震災から話を切り出し、「被災されたみなさまがいま、復旧に向けて、復興に向けてがんばっていらっしゃる。私も政府の一員として、全力でこれにつくしていきたい」と続けた。06:58仙台市の荒浜にホラ貝の音 同僚ら失い、山伏に 190人が亡くなった仙台市若林区の荒浜で、山伏の園部浩誉さん(58)が海岸線を歩き、ホラ貝を鳴らしていた。 保険会社に勤務し、2010年まで仙台市内に赴任していた。震災当時は、異動先の大阪で、津波にのまれていく映像を見ていた。仙台時代の同僚や当時の顧客が津波に流され、亡くなった。「被災していない自分が、どうしたら同僚やお客さんを弔えるか」と考えた結果、13年から出羽三山(山形県鶴岡市)で山伏の修行を始めた。 それから毎年3月11日は、未明に荒浜の南にある宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)を出発し、荒浜のほか、塩釜市や石巻市、南三陸町の各海岸を訪れてホラ貝をならす。「魂を鎮めることともに、この音を聞いて、同僚たちが帰ってきたときの目印になってくれれば」と語った。06:51出勤前に墓参「しっかり生活できている。安心して」 岩手県大槌町 妻の両親を東日本大震災で亡くした岩手県大槌町の遠藤修さん(51)は11日早朝、仕事の前にお墓参りをした。13年たったが、この日になると当時を思い出す。「自分たちはしっかり生活できているので、安心してください。どうぞ安らかに」と言う気持ちで祈ったという。06:50「一区切りと思って」 妻を失った男性、13年ぶりに慰霊碑へ 宮城県南三陸町に住む及川幸男さん(83)はこの日のワカメ漁に出る前に、町の震災復興祈念公園にある慰霊碑を訪れた。津波で妻敏子さん(当時70)をなくした。1960年のチリ地震の経験から「ここには津波は来ない」と言われていた場所に逃げたが、流された。その後、5年間は泣いてばかり。まだ気持ちの整理がついたとまでは言えない。 いま祈念公園がある、この地を訪れたのは13年ぶり。隣接する駐車場までは来ても、慰霊碑のある丘の上までは登らなかった。 ようやく「一区切りだ」と思えるようになった。慰霊碑には、亡くなったそれぞれの人の名前は刻まれていない。「他の地域のようにあればここに来て、触れられるのに」。仕事が終われば、妻の眠る墓に手を合わせに行く。06:40岩手県宮古市で避難訓練 517人が犠牲になった岩手県宮古市。毎年3月11日は、津波避難の訓練をしてきた。 午前6時40分、緊急避難場所に指定された田老地区の高台には、自力で避難してきた人や、自衛隊のマイクロバスで避難してきた人が集まった。 久保田正記さん(72)は13年前、自宅1階が浸水。「訓練に参加して、身体で覚えることで、いざという時に思い出しながら動けるようにしたい」と語った。06:30「この日は海に来ないといけないと思って」  宮城県東松島市・野蒜海岸 宮城県東松島市の野蒜(のびる)海岸。震災後、周囲には民家がなくなり、防潮堤が整備された。 仙台市泉区から訪れた鈴木吉浩さん(58)が日の出に合わせ、波打ち際から釣り糸を垂らした。 「まだ時期じゃないんで釣れないのは分かってるんです。でもこの日は海に来ないといけないと思って」 県南部の亘理町(わたりちょう)でおばを亡くした。毎年3月11日は、釣りざおごしに海を見つめる。追悼の思いを込めて。06:25「忘れていないよ」 兵庫県から訪れた大学院生 仙台市・荒浜 仙台市若林区の荒浜地区の海岸で、兵庫県姫路市の大学院生石倉万里恵さん(24)が手を合わせた。震災があったのは小学5年生の時。津波の映像がずっと忘れられず、いつか被災地に訪れたいと思っていた。 4月から神戸市の特別支援学校で働くのを前に、休みを利用してやってきた。海を見ながら、「震災を忘れていないよ」と考えていたという。 大学院で、広島の原爆体験の継承について学んだ。「震災からは13年。継承がどうなっているのか、遺構をどう残していくのか。社会人になる前に見に来たかった」。宮城県南三陸町や石巻市なども訪れる予定だという。06:10「少しでも誰かの役に」 移住した元製薬会社員、決意新た 宮城県石巻市 宮城県石巻市の日和山の山頂付近で、同市の団体職員斉藤雄一郎さん(66)は、眼下の海に向けて手を合わせ、じっと見つめた。 東日本大震災の時は、東京で製薬会社に勤めていた。翌月の4月下旬、薬剤師の派遣業務を支援するため、縁がなかった石巻市を訪れた。がれきに埋まった街が忘れられない。 2013年に会社から市職員に出向。被災者の体験を記録・保存するため、多くの人の話に耳を傾けた。セカンドキャリアは市の復興に捧げようと、住民票も移した。 現在は一般社団法人「石巻圏観光推進機構」の業務執行理事として、防災学習の参加者誘致などに取り組む。 3月11日は毎年、自分の決意を確認するため、日和山を訪れ、街並みを目に焼き付ける。 「被災した人たちが立ち上がり、よくここまで前に進んできた。自分も、少しでも誰かの人生の役に立てたら」06:00 能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市の市役所では、11日午前6時、東日本大震災の犠牲者らを悼み、市役所の屋上に半旗が掲げられた。地震発生の午後2時46分には、市役所などにいる全職員が黙禱(もくとう)を捧げる予定という。05:54「当たり前だったものが無くなってしまった日」 仙台市・荒浜 仙台市若林区荒浜では11日、早朝から海に向かって手を合わせる人の姿が見られた。 そのうちの一人、仙台市青葉区の石川泰子さん(58)は震災で親戚や友人を亡くした。 「この日は当たり前だったものが無くなってしまった日。まだ見つかっていない人もいるので、戻って欲しい」 仙台市の自営業福田沙織さん(53)は、所属するゴスペルグループのメンバーらと海に向かって手を合わせた。 震災から数年たった頃、ゴスペルグループでチャリティーイベントを始め、その後、毎年続けてきた。復興イベントが減っていく中で、「それでいいのかな」と考えたという。 これまで市内の献花台などには足を運んでいたが、3月11日に海岸に来たのは初めて。 「震災を忘れない、風化させないことが大事だと思う。生かされている自分たちに何ができるのか。考えながら生きていきたい」■■■3月10日■■■18:09避難指示の一部解除から1年半、駅前でキャンドルナイト 福島県双葉町 東京電力福島第一原発事故で大きな被害を受け、約1年半前に町の一部で避難指示が解除された福島県双葉町で10日、犠牲者への追悼と復興への願いを込めた「ただいま、おかえり 双葉まちキャンドルナイト」があった。 会場となったJR双葉駅前に…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

Au Japon, le démantèlement de la centrale de Fukushima, un chantier complexe sans cesse repoussé

La salle de contrôle centrale du réacteur de l’unité 2 de la centrale nucléaire de…

発生時刻のサイレンに耳塞ぐ遺族 「思い出しつらい」の声受け低音に

 3月11日午後2時46分、東日本大震災の被災地では、自治体が犠牲者を悼むためサイレンを鳴らす。宮城県石巻市は今年、その音をこれまでより低音に変える。「あの日を思い出してつらい」との遺族の声に応えたものだ。 サイレン音の変更を要望したのは、石巻市にある西光寺の住職、樋口伸生さん(61)。寺は、約4千人が犠牲になった市内でも特に被害が大きかった南浜地区にあり、檀家(だんか)172人を失った。毎月命日には遺族が集い、胸の内を話す「蓮(はす)の会」を開いてきた。 激しい揺れのあと津波に襲われ、子どもと一緒に避難したのに、自分だけ生き残ってしまった――。サイレン音を聞くと、あの日のことがよみがえると語る遺族がいた。追悼の合図がフラッシュバックの引き金になっていた。 樋口さん自身も胸が痛くなり、呼吸も苦しくなる。「時間が経って、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が治るどころか、ひどくなっていると感じる」と言う。サイレン音聞こえぬよう、打ち鳴らす木魚 寺では毎年3月11日に法要…この記事は有料記事です。残り527文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんSource : 社会 - 朝日新聞デジタル