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【震災10年の一日】14時46分、列島に広がった祈り

 死者・行方不明者、震災関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年。復興事業を中心とした第1期の「復興・創生期間」を経て、今後は心のケアなどに取り組む第2期に移ります。昨年はコロナ禍で中止された政府主催の追悼式が2年ぶりに開かれ、発生時刻に合わせて全国で祈りがささげられました。各地の一日の動きをタイムラインで振り返ります。 特集企画「生きる、未来へ」3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 16:40「日米両国はこれからも『トモダチ』」  東日本大震災の発生から10年になるのに合わせ、菅義偉首相とバイデン米大統領は共同メッセージを出した。加藤勝信官房長官が11日午後の記者会見で発表した。  犠牲者への哀悼の意や被災者へのお見舞いのほか、震災後に日米両国が行った支援活動や自衛隊と米軍の連携を強調。当時のオバマ政権で副大統領だったバイデン氏が震災発生から5カ月後に宮城県名取市や仙台市を訪れたことに触れ、「日本国民の驚くべき粘り強さを目の当たりにした」とした。また、米軍の救援活動「トモダチ作戦」を念頭に、「日米両国はこれからも『トモダチ』として、手を携えて前進していく」と結んだ。  加藤氏によると、共同メッセージは、バイデン氏の就任後に初めて行った1月の電話協議で、首相が「被災者の方々を勇気づけるメッセージを2人で出そう」と提案したという。加藤氏は「日米両国が東北地方の復興、よりよい未来の実現のため、手を携えて前進していくとの両首脳の決意が込められている」と語った。 15:38終着点なき心の復興  岩手県大槌町が主催する追悼式で、遺族を代表して倉堀康さん(37)が追悼の辞を述べた。両親や兄ら親族6人を亡くし絶望感でいっぱいになったが、「地域の方やボランティアの方に支えてもらい、新しい出会いができた」。仮設住宅ではコミュニティーづくりに参加、有意義な時間を過ごしたと言う。「ハード面の復興はほぼ終わったが、終着点のない心の復興には、まだまだ時間が必要だと思います」 拡大する遺族代表で追悼の辞を述べる倉堀康さん=2021年3月11日午後3時38分、岩手県の大槌町役場、東野真和撮影  大槌学園8年の菊池康介さん(14)は児童・生徒を代表して追悼の辞を述べた。明治、昭和の災害の石碑が各地域にあることを授業で知り、「学園が『生きた石碑』としての役割を担い、被災した私たちが、震災を経験していない子に伝えていきたい」と話した。 15:35仙台で追悼式、遺族ら256人参加  仙台市の追悼式が、同市宮城野区の宮城野体育館で開かれ、遺族ら256人が参列した。昨年は新型コロナの影響で中止され、追悼式の開催は2年ぶり。  農家の佐藤稔さん(71)は津波で長女優子さんを失い、町内会長を務めていた三本塚地区(同市若林区)では12人が亡くなった。遺族代表として言葉を述べ、犠牲者に「住む世界は違っても、私たちの心の中に生き続ける。良き日もあしき日も、ともに前へ進んでいきましょう」と呼びかけた。  郡和子市長は、式辞で「今後も一人一人に寄り添った心のケアを続けていく」と話した。 15:30語り部「自分事としてとらえて」…

「忘れた日はない」10年間、亡き妻子に告げ続ける数字

 11日午前6時半、宮城県東松島市の菅原節郎さん(70)は、仏壇の横に飾られた妻と息子の写真に語りかけた。「きょうで3654日。11年目を迎えたよ」。2人のことを忘れた日はない。そう伝えたくて、この10年間、震災からの日数を毎日、告げている。  あの日、強い揺れのあと、家にいた妻の郁子さん(当時53)と長男の諒(りょう)さん(当時27)に、足が不自由な近所のおばあちゃんを連れて逃げるよう頼んだ。市議だった自分は、他に逃げ遅れた人がいないか、車で見守りへと向かった。  その途中、車が津波で浮いた。すぐに車外に出て、足が水につかるなか、20メートルほど先にある知人の家の2階に逃げ込んだが、妻と息子に何度電話をかけてもつながらない。地区一帯で約500人が命を落とした。2人と会えたのは12日後。遺体安置所でだった。  「一緒に逃げていれば、2人とも生きていたはずだ」。いまも悔いている。  あれから10年がたった市の追悼式。遺族代表として述べた言葉は、あふれる涙で途切れ途切れになった。「我々が味わった、救える命があったかもしれないという無力感、すべてを失った絶望感、一縷(いちる)の望みが断ち切れた嘆き、悲しみ、口惜しさ、申し訳なさ、自責の念はこの先も消えることはないと思います」  もう一つ、多くの人に伝えたいことがある。  当時、市内では親を亡くした子… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

「思い出の品展示場」、最後の3.11 管理人の心残り

 津波に流されて金具が壊れたランドセルに、縫い目がほつれたぬいぐるみ。二つ折りの携帯電話や位牌(いはい)……。福島県浪江(なみえ)町の「思い出の品展示場」には、津波の被災地で見つかった住民の持ち物が並ぶ。まだ、約1万5千点が残っているが、21日に閉鎖される。  元町職員で、管理人の川口登さん(71)は「展示場にとって最後の3月11日。残りわずかの日々だが、一人でも多くの人に品を届けたい」と話す。  町の中心部に近い国道沿いに展示場ができたのは、2014年7月。当時は町の全域で原発事故による避難指示が続いていた。町では沿岸部の請戸(うけど)地区などが津波に見舞われ、がれきから大量の「思い出の品」が見つかっていた。  墓参りや一時帰宅で訪れる持ち主に品物を返すため、町などが空き店舗を改装し、展示場は始まった。がれき処理を担う環境省が建設会社に運営を委託した。  川口さんは3年前の3月、60代の男性に祖父の位牌を返した。男性は「がれきの中から、よく見つかったなあ」。位牌に語りかけた。川口さんが、位牌の裏に刻まれた名字と発見場所から持ち主を推測し、町を通して連絡した人だった。 戻ってきた両親の「証し」  川口さん自身も震災後、大切な品との再会に支えられた。  あのときの津波で両親を失った… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

教育史伝える珍しいスポット 京都市学校歴史博物館

「まだまだ勝手に関西遺産」  京都・四条河原町から南へ歩いて約5分。古い町家も立つ住宅街の一角に、重厚な石塀と城門のような立派な正門が現れる。1992年に閉校した京都市立開智小学校の校舎を利用した京都市学校歴史博物館だ。明治以降の京都の教育の歴史を様々な資料で紹介する。正門も石塀も明治・大正期の建築で開智小時代のもの。ともに国の登録有形文化財だ。  展示室入り口にはアーチ型屋根をもつ1875(明治8)年築の旧成徳小の玄関車寄せが移築されている。これも国登録有形文化財。「現存する京都市最古の学校建築です」。学芸員の林潤平さん(33)と業務係長の佐々木秀希さん(47)が教えてくれた。 拡大するアーチ型屋根が美しい京都市学校歴史博物館の展示室入り口。「日本の歴史は学校なしでは語れない」と学芸員の林潤平さん=京都市下京区、滝沢美穂子撮影 拡大する1901年築の城郭をモチーフにした高麗門様式の正門と1918年築の石塀。92年に閉校した京都市立開智小学校当時のもの=京都市下京区の京都市学校歴史博物館、滝沢美穂子撮影 ■古い教科書や通知表 実験器具… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

鉄道ジオラマ博物館、歴史に幕 四半世紀ファンに愛され

 巨大な鉄道模型のジオラマを展示する私設ミュージアム「トレインギャラリーNAGANO」(長野県須坂市)が14日、およそ四半世紀の歴史に幕を閉じる。オーナーで館長の深沢慶一さん(76)=長野市=が、体力の衰えから決断した。新型コロナの影響で客が激減したことも一因という。  深沢さんは幼少期から大の鉄道好き。毎日、長野駅近くの跨線橋(こせんきょう)で列車を眺めていたという。小学生のときに祖母から電気機関車の模型をもらい、鉄道模型にのめり込んだ。家業の酒卸業やコンビニ経営の傍ら、約4千両を収集。新幹線の長野駅が開業した1997年、コレクションを公開するトレインギャラリーをオープンした。  展示の目玉は、約60畳分の広さの巨大なジオラマ。善光寺や碓氷峠など長野らしい景観を配し、国鉄時代に製造された車両「115系」や特急「あさま」などゆかりの電車のほか、引退した0系新幹線「こだま」や寝台特急「北斗星」など往年の約400両が自動制御で走る。  模型はすべて、Nゲージ(レール幅9ミリ)より大型のHOゲージ(同16・5ミリ)と呼ばれるタイプ。JR姨捨(おばすて)駅(千曲市)でスイッチバックして入線したローカル線の電車を特急「しなの」が追い抜くなど、実際の運行を再現したこだわりのジオラマは鉄道ファンからも愛された。開業当初は、1日3千人が入館することもあったという。  ただ、受け付け業務は家族らが手伝うが、老朽化したジオラマのメンテナンスや模型の修理などはすべて深沢さんが1人で担ってきた。年中無休をやめるなどしたが、「体力的に限界だった」(深沢さん)。新型コロナの影響で、県外の観光客らが激減したことも決断を後押ししたという。  常連客からは親しみを込めて「お父さん」と呼ばれた深沢さん。「若いころからの夢だった博物館をオープンできて幸せだった。寂しい気持ちもあるが、小さい子どもから年配の夫婦まで、多くの人たちに喜んでもらえたので悔いはない」と話した。  14日まで毎日午前10時~午後2時(12日のみ正午~午後2時)に開館。入館料は大人800円、小中高生400円。模型車両の多くは希望者に有償で譲る(応相談)。施設のシンボルで、屋外に展示する引退した長野電鉄2500系の実車2両は現在、譲渡先と交渉中という。問い合わせは、トレインギャラリーNAGANO(026・248・4188)へ。(滝沢隆史) Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

三菱電機の新入社員自殺、労災認定 上司から「殺す」

 2019年夏に三菱電機の男性新入社員(当時20代)が自殺したことをめぐり、尼崎労働基準監督署(兵庫県)が労災だと認定したことがわかった。教育主任だった上司から「殺すからな」などと言われたことが原因だったと判断したとみられる。遺族側の弁護士が11日、会見して明らかにした。  認定は2月26日付。遺族側が20年9月に労災を申請していた。  遺族は弁護士を通して11日にコメントを公表し、「息子のケースは未然に防げたはずです。労災認定を機に、今度こそ真剣に組織を挙げて、職場環境の改善に努めてほしい」などとした。  三菱電機では心身の健康を害する社員が続出している。労災認定が判明するのは、14年12月以降ではこれで6人目で、このうち3人が自殺している。ほかに子会社でも19年10月に社員の過労自殺が労災認定されている。  社員の自殺が労災と認められる… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

【震災10年の一日】楽天の銀次選手「常に被災地を…」

 死者・行方不明者、震災関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年。復興事業を中心とした第1期の「復興・創生期間」を経て、今後は心のケアなどに取り組む第2期に移ります。昨年はコロナ禍で中止された政府主催の追悼式が2年ぶりに開かれ、発生時刻に合わせて全国で祈りがささげられる予定です。各地の一日の動きをタイムラインで伝えます。 特集企画「生きる、未来へ」3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 14:46東電社長、訓示後のぶら下がり取材なし  福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)の廃炉作業を続ける東京電力の役員や社員らは、震災の発生時刻にあわせて黙禱(もくとう)した。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、小早川智明社長は東京都港区の本社からテレビ会議などを使って、福島第一にいる社員らに訓示した。小早川氏は「福島の復興、福島の未来のために、それぞれの持ち場で全力を尽くしてほしい」と述べた。 拡大するテレビ会議などを通じて、東京電力福島第一原発にいる社員らに訓示する小早川智明社長=2021年3月11日午後2時47分  原発事故後、東電の社長が3月11日に福島に来県しなかったのは初めて。13年から続けてきた訓示後のぶら下がり取材もなかった。  地震と津波で被災した第一原発は、1~3号機の原子炉を冷却できなくなり、核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」を起こした。溶け落ちた核燃料(デブリ)は計約800~900トンとされるが、取り出しはまだ始まっていない。 14:15「災害時、役立てるラジオに」  京都府の九つのコミュニティーFMラジオ局が防災番組の合同放送を企画し、京都市中京区の同時代ギャラリーで公開収録した。震災当時の記憶やその後の取り組みなどについて、各局の担当者がリレートークを行い、6局が生放送した。  震災の経験や記憶を継承することや、大規模災害に備え、連携を深める狙い。テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」で、同時代ギャラリーと各局のスタジオをつないだ。  宇治市、城陽市、久御山町がエリアの「FMうじ」は震災後、東北の人々の声を毎週届けてきた。パーソナリティーの喜田晶子さんは「小さな変化も放送し、災害時に役立てるラジオにしたい」と語った。 13:10大槌・吉里吉里で震災犠牲者の法要  岩手県大槌町吉里吉里の吉祥寺で震災犠牲者の法要があり、約100人が参加した。新型コロナ対策のため、読経は境内で聞き、順番に本堂に入って拝んだ。  お年寄りの多い列の中に、運動着姿の高校生がいた。県立大槌高校2年、岡谷美海さん(17)はバレー部の練習の後にかけつけた。母と幼い2人の妹、曽祖母の4人を震災で亡くした。  「こういう時でないとちゃんと近況報告できないと思って来ました。保育士になって地元で働くために短大をめざして勉強がんばっているので、見守っていてくださいとお願いしました」。この10年、つらい時もあったが、「いつも一緒にいてくれる友達と普通に話すことで気が楽になれました」。…

天皇陛下「被災地に心寄せ続けたい」おことば(全文)

 東日本大震災から10年となった11日、国立劇場)(東京都千代田区)では政府主催の追悼式があり、天皇、皇后両陛下らが出席した。  天皇陛下の「おことば」は次のとおり。  東日本大震災から10年が経(た)ちました。ここに皆さんと共に、震災によって亡くなられた方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。  10年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す方が亡くなり、行方不明となりました。また、この地震に伴う津波や原子力発電所の事故により、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。この震災の被害の大きさは、忘れることのできない記憶として、今なお脳裏から離れることはありません。  あれから10年、数多くの被災者が、想像を絶する大きな被害を受けながらも、共に助け合いながら、幾多の困難を乗り越えてきました。また、国や全国の地方自治体、160を超える国・地域や多数の国際機関、大勢のボランティアなど、国内外の多くの人々が様々な形で支援に力を尽くしてきました。  私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、関係者の努力と地域の人々の協力により、復興が進んできたことを感じています。これまで復興に向けて歩んできた多くの人々の尽力とたゆみない努力に深く敬意を表します。  一方で、被災地ではまだ様々な課題が残っていると思います。復興が進む中にあっても、新しく築かれた地域社会に新たに人と人とのつながりを培っていく上では課題も多いと聞きます。家族や友人など親しい人を亡くしたり、あるいは住まいや仕事を失い、地域の人々と離れ離れになったりするなど生活環境が一変し、苦労を重ねている人々のことを思うと心が痛みます。また、原子力発電所の事故の影響により、人々がいまだに自らの家に帰還できない地域や、帰還が始まったばかりの地域があり、農林水産業への風評被害の問題も残されています。高齢者や子供たちを含め、被災された方々の心の傷を癒やし、心身の健康を見守っていくことも大切であると感じます。  今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います。  先月にはマグニチュード7を超える地震が福島県沖で発生しました。被災された皆さんに心からのお見舞いを申し上げます。この地震は東日本大震災の余震と考えられており、このことからも、震災を過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。  我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。過去の災害に遭遇した人々が、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして、災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。そして、その教訓がいかされ、災害に強い国が築かれていくことを心から願っています。  今なお様々な困難を背負いながらも、その苦難を乗り越えようとたゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、安らかな日々が一日も早く戻ることを皆さんと共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。(杉浦達朗、長谷文) Source : 社会 -…

「裁判ではあってはならない」 民事訴訟の審理半年化

 法務省が民事訴訟の審理を半年以内に終わらせる新たな制度の導入を検討している。裁判を利用しやすくするのが目的とされるが、「事実認定が粗雑になる」という弁護士らの反発を押し切って導入する必要はあるのか。約40年にわたって裁判官を務めた森野俊彦さん(74)に考えを聞いた。  ――新しい制度の検討をどう見ていますか。  「裁判はいまでも平均9カ月程度で終わっており、わざわざ6カ月以内に終える仕組みを新たに入れる必要は全くない。この制度は料理に例えると、少ない材料で手軽につくれるものをお客に出して済ますようなもの。裁判ではあってはならないことだ」  ――使うかどうかは当事者同士の合意に任されており、選択肢を広げるという意味で前向きにとらえる人もいます。  「審理を迅速に進められる優秀な裁判官にはさして反対する理由はない。しかし、この制度ができれば、代理人に働きかけるなどし、そうでない裁判官も含めて必ず使うようになる。主張や立証が制限され、当事者の納得が得られない裁判が多く出かねない」  ――なぜ、必ず使うようになるのでしょう。  「審理を終えた後、裁判官がまだ判決を書いていない事件は『判決未済』と呼ぶ。いまは各裁判官の『未済』の件数が内部で共有されており、これが多いと出世に悪影響が出る。多くの『未済』を抱える裁判官にとって、審理の期限が来たから判決を出す、と言える制度はまさに渡りに船だ」  「裁判官には横並び意識もある… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

「音もなく近づいてきた」津波、安否不明の妹は間一髪…

 「来るぞ!」  上司が叫んだ数秒後、当時30歳だった妹の恵理子(えりこ)(40)は机の下に潜り込んだそうです。  ガタガタガタ……。小さな揺れはあっという間に大きくなり、何分も続きました。恵理子はそのときのことをこう振り返りました。「揺れも音もすごかったのを覚えてる」 大内悟史記者の実家は避難区域には含まれていませんが、原発の存在は影を落とします。両親とともに原発が立地する双葉町へと向かう道中、大内記者は思いがけない自分の過去を知らされます。 朝日新聞ポッドキャストはApple Podcasts や Spotify では毎日配信しています。音声プレーヤー右上にある「i」の右にあるボタン(購読)でリンクが表示されます。 拡大する小名浜地区の津波浸水被害を振り返る父と妹(左)。妹は小名浜の民間企業で勤務中に震災が起き、高台に避難した。通勤用の車が流され、廃車になった=福島県いわき市  福島県いわき市の港町、小名浜(おなはま)。妹が勤めている会社の事務所は、岸壁からわずか数十メートルの距離にあります。テレビをつけると、市内第2の街、小名浜にも津波が到達する恐れがあると伝えていました。  妹たち約30人は避難マニュアルに従い、近くの高台を目指して歩き始めました。高台までは直線距離で1キロ余り。マニュアルでは、渋滞に巻き込まれる恐れがあるため、徒歩で避難する取り決めになっていました。  「本当に(津波が)来るのか分からないよねと会話しながら、海岸線と平行に東へと普通の速さで(歩いた)。途中で何度か余震が来て、建物のガラスが割れるのも目にした」  途中で「避難すんのげ?」と住民に声をかけられました。街なかの小さな川を渡り、地震から約20~30分で高台にたどり着きました。坂の途中で振り返ると、黒々とした波に浸水する港が見えました。  「津波が迫っていた、というより音もなく近づいてきていたという感じで。港を見たら、一面の水たまりになっていて。本当に津波が来たんだなと驚いた。もう少し歩くのが遅かったり、津波が早く来たりしたら津波に遭遇していたかもしれない」…