社会

カズワン沈没事故から2カ月 献花台前では手を合わせる人々も

佐野楓、石垣明真2022年6月23日 18時38分 北海道斜里町の知床半島沖で26人が乗った観光船「KAZUⅠ(カズワン)」が沈没した事故は、23日で発生から2カ月を迎えた。町役場入り口に設けられた献花台には、いまだ行方がわからない12人の発見を願い、手を合わせる人々の姿が見られた。 観光で知床に来て、この日、献花台を訪れた岐阜県の男性(65)は「まだ見つかっていない人も多く、本当に可哀想だと思う」と話した。 献花台は遺体安置所となった町営体育館に設けられていたが、今月6日に町役場に移設された。献花は事故後、計1254件(今月22日現在)あったという。町保健福祉課保健担当主幹の茂木千歳さんは「町は普段の生活に戻りつつあるが、献花台の花が絶えないということは、それだけ大きな事故だったということ」と話す。事故直後から町営体育館に詰めて家族の対応に当たるとともに、献花台の花の世話を担当してきた。「花を見るたびに切なくなるが、できるだけ花をきれいに保って、皆さんの思いを届けたい」 一方、道警はこの日、21日から行っていた現場周辺海域や沿岸部での集中捜索を終了した。行方不明者の手がかりは見つからなかったという。 道警警備課によると、この日も、警察官約40人が警備艇2隻やヘリ1機も用いて、根室半島北側の沿岸と海域を午前9時~午後5時ごろ捜索した。この日で、発生後から続けてきた警備艇での捜索はいったん終了するという。今後は、日常業務のパトロールの中で捜索を続けていく。(佐野楓、石垣明真)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

不正な口座開設容疑で自衛官逮捕 開設後、特殊詐欺被害の振込先に

岩田恵美2022年6月23日 14時59分 還付金詐欺事件の振込先として使われた銀行口座を不正に開設したとして、警視庁は、陸上自衛隊北千歳駐屯地(北海道千歳市)に所属する2等陸曹の男(42)=千歳市=を詐欺容疑で逮捕し、23日発表した。同庁は認否を明らかにしていない。 牛込署によると、男は今年4月8日、第三者に利用させる目的で北海道内の銀行で口座を開設し、キャッシュカードを受け取った疑いがある。この口座は5日後、東京都新宿区の60代女性が「還付金がある」とうそをつかれて現金50万円をだまし取られる詐欺事件の現金振込先として使われた。 女性から相談を受けた牛込署が口座情報を調べたところ、男の名義だったことがわかったという。口座から現金を引き出した人物は男とは別人だったといい、署は、男が詐欺グループ側にキャッシュカードを渡したとみている。(岩田恵美)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

玉城知事「沖縄から平和の声をつなげる」 復帰50年の平和宣言全文

 沖縄県で23日、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった人らを悼む追悼式典があり、玉城デニー知事が平和宣言を読み上げた。戦後77年、そして日本に復帰して50年。厳しい世界情勢の中、沖縄が果たす役割について玉城知事は「沖縄から世界へ平和の声をつなぐ」と宣言した。 ここ沖縄は、先の大戦において、一般住民を巻き込み、史上まれに見る苛烈(かれつ)を極めた地上戦の場となりました。鉄の暴風は20万人余りの尊い命を奪い去り、貴重な文化遺産や緑豊かな自然を破壊しました。 あれから77年目となる6月23日を迎えました。 戦争の不条理と残酷さを身をもって体験した県民は、一人一人の不断の努力と揺るぎない信念を持って、戦後の廃虚と混乱から懸命に立ち上がり、共に手を取り合って幾多の困難を乗り越えてきました。 今年、沖縄は本土復帰50年の節目の年です。 復帰の前年1971年、当時の琉球政府が日本政府・国会に提出した復帰措置に関する建議書においては、「基地のない平和の島」としての復帰を強く望むことが明確に記されております。 しかしながら、今なお国土面積の約0・6%しかない沖縄に、日本全体の米軍専用施設面積の約70・3%が集中しており、米軍基地から派生する事件・事故、航空機騒音、水質や土壌などの環境汚染など、県民は過重な基地負担を強いられ続けています。 このため沖縄県は、在沖米軍基地の更なる整理・縮小や、日米地位協定の抜本的な見直し、事件・事故等の基地負担の軽減、普天間飛行場の速やかな運用停止を含む一日も早い危険性の除去、辺野古新基地建設の断念など、沖縄の基地問題の早期の解決を図ることを強く求めてまいります。 平和で真に豊かな沖縄の発展に向けて、貴重な自然環境や沖縄独自の文化を、未来を担う子や孫たちに引き継いでいくことが私たちの責務です。 世界においては、依然として地域紛争は絶えることがなく、難民、貧困、飢餓、差別、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなどの深刻な問題が存在しています。 ウクライナではロシアの侵略により、無辜(むこ)の市民の命が奪われ続けています。美しい街並みや自然が次々と破壊され、平穏な日常が奪われ、恐怖と隣り合わせで生きることを余儀なくされている状況は、77年前の沖縄における住民を巻き込んだ地上戦の記憶を呼び起こすものであり、筆舌に尽くし難い衝撃を受けております。 沖縄県としては、人道支援の立場から、ウクライナからの避難民受け入れ等の支援を行っており、一日も早い平和の回復を強く望みます。 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と、ユネスコ憲章の前文に記されております。 平和な社会を創造するためには、国際社会が連帯し、多様性や価値観の違いを認め合い、対立や分断ではなく、お互いを尊重し、対話を重ね、共に平和を追求していくことが、今求められているのではないでしょうか。 沖縄には、独自の歴史や文化によって培われた寛容の心と万国津梁(しんりょう)の精神で多くの国々と交流し、平和を維持してきた歴史があります。 このような歴史を積み重ねてきた沖縄県では、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻銘した「平和の礎」を建設しました。 今年も新たな追加刻銘を行い、24万1686人の方々が刻銘されており、この取組は今なお続いております。 私たちは、激動が続く世界情勢の中で、今こそ、平和の礎に込められた平和と命の尊さを大切にする「沖縄のこころ・チムグクル」を国境を越えて世界に発信していくことが重要だと考えております。 戦後77年が経ち、戦争を知らない世代が大半を占めるなど悲惨な沖縄戦の記憶が薄れていく中で、忌まわしい戦争の記憶を風化させないために、沖縄戦の実相や教訓を次の世代に正しく伝えていくことは、私たちの大切な使命です。 沖縄県では、復帰当時の県民の願いを引き継ぎ、復帰から50年経った現在においてもなお残る課題の解決と、県民が望む沖縄21世紀ビジョンで描く沖縄のあるべき姿の実現に向け、「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」をとりまとめました。 令和4年度から始まった「新・沖縄21世紀ビジョン基本計画」に基づき、県民が望む「平和で豊かな『美ら島』おきなわ」の未来に向けて、沖縄県の持つ様々な特性をいかしながら、「誰一人取り残すことのない優しい社会」の実現に全力で取り組んでまいります。 私たちは、沖縄から世界へ平和の声をつなげ、二度と沖縄を戦場にさせないために、核兵器の廃絶、戦争の放棄、恒久平和の確立に向け絶え間ない努力を続けてまいります。 「命(ぬち)どぅ宝」んでぃ言(いゅ)る格言(いくとぅば)や、私達(わったー)御先祖(うやぐゎんす)ぬ 遺(ぬ)くちくぃみそーちゃる何事(ぬーぐとぅ)にん勝る黄金言葉(くがにくとぅば)やい(ゐ)びーん。 くぬ命宝(ぬちだから)やる格言や、何時(いつい)ぬ時代(でー)までぃん継(つぃ)なじいゃびらな。 誰一人(たーちゅい)やてぃん命奪(ぬちぼー)らってぃんならん、あんし奪(ぼー)い(ゐ)さんんぐとぅ 御万人(うまんちゅ)が心穏(なだやし)くそーてぃ暮らさりーる安寧(くくるやっさ)る世(ゆ)ぬ中んかい(ゐ)なさびらな。 子共達(わらびんちゃー)ぬ瞳(みー)が輝(ふぃちゃ)い(ゐ)かんてぃ、全(まじり)ぬ方々(ぐにんじゅ)が幸(しぇーえー)やんでぃ いゅる実感(うむい)ぬない(ゐ)る希望(ぬじゅみ)ぬ満(み)っち溢(あん)でぃーる社会(ゆぬなか)なしみてぃ 今世(なまぬゆー)から未来(あとぅぬゆー)までぃん築(つぃみかさび)てぃいちゃびらな。 Your lives matter It is life, itself, that matters more than any treasureNobody has the right to take another life Nobody should be left behind or have to live with fearWe will pass our faith of “Nuchi-du-takara”(命どぅ宝) on to the succeeding generations So that we can create a society where our children’s eyes brightly with hopes, and all people are able to live in peace Let’s work together to hand down our compassionate society that embodies the spirit of the Okinawan People Let’s continue building a bright future for our children and grandchildren! 本日、慰霊の日に当たり、国籍の区別なく犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、平和のたまあいとうまこと 尊さを正しく次世代に伝え続け、国際平和の実現に貢献し、すべての県民が真に幸福を実感できる平和で豊かな沖縄の実現を目指し、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。 令和4年6月23日 沖縄県知事 玉城デニー◆方言及び英語の意訳 命(ぬち)どぅ宝 命こそ宝をいつの時代でも語り継ぐこと。 誰かの命が奪われず、命を奪うこともせず、人々が心穏やかに暮らせる安寧な世の中にすること。 子ども達が瞳を輝かせて、全ての人々が、幸せだと実感できる希望に満ちあふれた社会を今から未来へ築いていこう。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

女性が刺されて重傷、男は拳銃で自殺か 大阪・豊中の住宅地

2022年6月23日 15時22分 23日午後0時55分ごろ、大阪府豊中市柴原町3丁目の路上で、「女性が刺され、男性が拳銃で頭を撃った」と配送業者の男性から119番通報があった。大阪府警などによると男女はいずれも60~70代とみられ、女性は腹部を刺されて重傷、男は後頭部を負傷して病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。豊中署は男が女性を刺したとみて、殺人未遂容疑で調べている。 署によると、23日午後0時55分ごろ、美容室近くの路上で発砲音が響いたという。男が女性を刃物で刺し、その後に拳銃で自殺を図ったとみている。現場は阪急豊中駅から北に約1・5キロの住宅地で、近くには小学校や病院、コンビニなどがある。 近くの自営業の男性(80)は「拳銃の音は聞こえなかったが、パトカーや救急車が来て外を見たら、警察官が20人くらい来てた。ここで20年くらい商売をしているが、拳銃を持ってる人がこの辺にいて、真っ昼間からこんなことが起きるなんて物騒で怖い」と話した。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

金沢の未解決殺人、似顔絵を公開 アパート駐車場で目撃された男性

川辺真改2022年6月23日 12時22分 金沢市久安2丁目のアパートで2008年6月、会社員の橋本清勝さん(当時22)が殺害された未解決事件で、石川県警捜査1課は21日、犯行時間帯にアパートの駐車場で目撃された男性の似顔絵を公開した。男性が事件について、何らかの事情を知っている可能性があるとみて、情報提供を呼びかける。 同課は、事件発生時刻が08年6月27日午後8時半ごろであることを発表。この時間帯に、アパート駐車場で、2人の男性が目撃されていたことを初めて明らかにした。 似顔絵の男性は、当時20代とみられ、身長約170~175センチのやせ形。黒系で白の線が入ったニット帽をかぶり、黒系のTシャツ、紺系のジーンズを身につけていたという。 この男性が現場のアパート方向から現れ、もう一人の同じ20代とみられる、黒っぽい服を着た男性と駐車場で合流し、西側の道路へ歩いていく姿が目撃されていたという。 同課の千田季雪次席は「どんなささいな情報でも寄せてほしい」と呼びかけた。情報提供は金沢中署(076・222・0110)まで。(川辺真改)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「こわいをしって、へいわがわかった」 7歳が読む平和の詩全文

 沖縄戦の犠牲者らを悼む23日の追悼式で、沖縄市立山内小学校2年の徳元穂菜(ほのな)さん(7)が読み上げる「平和の詩」の全文は次の通り。こわいをしって、へいわがわかったびじゅつかんへお出かけおじいちゃんやおばあちゃんもいっしょにみんなでお出かけうれしいなこわくてかなしい絵だったたくさんの人がしんでいた小さな赤ちゃんや、おかあさん風ぐるまやチョウチョの絵もあったけどとてもかなしい絵だったおかあさんが、七十七年前のおきなわの絵だと言ったほんとうにあったことなのだたくさんの人たちがしんでいてガイコツもあったわたしとおなじ年の子どもがかなしそうに見ているこわいよかなしいよかわいそうだよせんそうのはんたいはなに?へいわ?へいわってなに?きゅうにこわくなっておかあさんにくっついたあたたかくてほっとしたこれがへいわなのかなおねえちゃんとけんかしたおかあさんは、二人の話を聞いてくれたそして仲なおりこれがへいわなのかなせんそうがこわいからへいわをつかみたいずっとポケットにいれてもっておくぜったいおとさないようになくさないようにわすれないようにこわいをしって、へいわがわかったSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

礎の名前、指でなぞった祖父 7歳が考えた平和「ずっとポケットに」

 23日の沖縄全戦没者追悼式では、沖縄市立山内小学校2年の徳元穂菜(ほのな)さん(7)が「平和の詩」を朗読する。タイトルは「こわいをしって、へいわがわかった」。 〈びじゅつかんへお出かけ おじいちゃんや おばあちゃんも いっしょに みんなでお出かけ うれしいな〉 徳元さんは1年前、家族で美術館を訪れた。縦4メートル、横8・5メートル。巨大なその絵の前に初めて立った。 〈たくさんの人がしんでいた 小さな赤ちゃんや、おかあさん〉 〈風ぐるまや チョウチョの絵もあったけど とてもかなしい絵だった〉 絵の真ん中に同じ年くらいの子を見つけた。ぽつんと、悲しそうに立っている。「この子、お母さんがいないね」。家族の誰かが言うのを聞いた。 〈こわいよ かなしいよ かわいそうだよ せんそうのはんたいはなに? へいわ? へいわってなに?〉 思わずそばにいた母親に体を寄せた。 〈あたたかくてほっとした …この記事は有料会員記事です。残り666文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

観光船沈没、忘れられない慟哭 安置所で家族を支え続けた町職員

 知床半島沖の観光船事故は北海道斜里町で起きた。町職員は語る。事故と向き合い、乗客の家族を支えた日々を。=敬称略 「遭難者が見つかった」 4月23日に起きた観光船「KAZUⅠ(カズワン)」の事故。保健福祉課長の玉置創司(45)の事故対応は、発生翌日の午前5時過ぎ、携帯に上司のメッセージが届いたところから始まった。 斜里町の職員は事故直後から、現地を訪れた乗客の家族に寄り添い続けてきました。幼い女の子一家への配慮。家族とともに名所を訪れた時。これまで明らかになっていなかった当時の出来事を語ってくれました。 遺体が発見されたら、町が安置所の設営をすることが決まっていた。前日のうちに関係する職員に声かけはしていたが、「海が荒れていたら、なかなか見つからないだろう」と想像していた。 カズワンの事故が起きた4月23日、斜里町では朝方15度ほどだった気温が、昼から3度ほどにまで下がっていた。「春にはよくある天気だが、この時期の海での事故に、誰もが厳しい状況を覚悟していた」 大勢が関わる海難事故が起き…この記事は有料会員記事です。残り2407文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

この映画は絶対に撮らなくちゃいけない 香川京子さんが語る沖縄戦

【動画】沖縄の「慰霊の日」を前に、インタビューに応じる俳優の香川京子さん=井手さゆり撮影 23日は、太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」。1953年公開の映画「ひめゆりの塔」で学徒役を演じ、長年にわたって沖縄戦と向き合い続けてきた俳優の香川京子さん(90)に、元学徒との交流を通じて育んできた平和への思いを聞いた。 映画「ひめゆりの塔」は戦後、多くの人が沖縄戦を初めて知るきっかけになった作品だと思います。私自身、台本を読んでショックを受けました。 私は、疎開先の茨城県で終戦を迎えました。当時、13歳。学校から家まで、車も通らない道を、お友達と歌を歌いながらのんびり歩いて帰っていました。同じ頃、沖縄では自分と年の違わない女学生たちが、こんな目にあっていたのだと、そのとき初めて知った。この映画は絶対に撮らなくちゃいけない、という使命感が生まれました。 当時、沖縄は米軍統治下で、ロケはできなかった。だから、春から夏の沖縄で起きたことを、冬の東京や千葉で撮影したんです。深夜までかかることもしょっちゅうで、霜の降りた地面に伏せたり、吐く息が白くならないように口に氷を含んだり。本当に大変な撮影でした。 でも、どんなに寒くてつらくても、生きるか死ぬかの思いをしていた女学生たちに比べたら……。こんなことで文句を言っていては申し訳ない、という気持ちでした。 映画は大ヒットしました。戦時中、沖縄で起きたことを、本土は知らされていなかったんです。戦後、「平和になってよかった」とみんなが思っていたところに、同じ日本の沖縄で、女学生が何百人と亡くなっていたことを初めて知るわけですから、びっくりしますよね。戦争と平和について、改めて考えながら見られたんじゃないかな。 初めて沖縄へ行ったのは、26年後の1979年。戦時中、卒業証書を受け取れなかったひめゆり学徒のために、34年ぶりの卒業式が開かれるということで、テレビのリポーターとして参加しました。 初めて見る沖縄の海は、本当にきれいでした。でも、ここが真っ黒になるくらいの軍艦で埋まった景色を想像して、どんなに大変だったかと。だから、私は沖縄に行っても、観光をする気にはなれないんです。 生き残った元学徒の方々は、とても明るく迎えてくださり、ほっとしました。なかには、当時の病院壕(ごう)のひどいにおいを画面から感じてしまったりして、「つらくて見られなかった」と話す方もいました。また、「実際と違う」ということも言われました。 映画には、私の演じた女学生…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

太平洋戦争最大の地上戦、77年前の島で何が いちからわかる沖縄戦

 いまから77年前、日本はアメリカ、イギリスなどと戦争をしていた。太平洋の島々を奪った米国は、次に沖縄を占領して、日本本土を攻めるための前進基地として使おうと考えた。これに対し日本は、日本本土を守るため、沖縄になるべく米軍をひきとめて時間をかせぐ「持久戦」の作戦をたてた。 こうして起きたのが「沖縄戦」だった。どんな戦いだったのか。何が起きたのか。詳しく解説します。「沖縄戦」ってどういうもの? 沖縄で最初の大きな被害は1944年10月の「10・10空襲」だ。死者は軍人と民間人あわせて668人とされる。45年になって、航空機で軍艦に体当たりする日本軍の「特攻」攻撃も始まった。特攻による死者は数カ月間に約2500人ともいわれている。 米軍は45年3月末、空襲や海上の軍艦からの砲撃につづき、慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸した。このころから約3カ月にわたる戦いを一般に、沖縄戦と呼んでいる。 沖縄本島の上陸地から本島北部にかけては約2週間で、米軍に占領された。日本軍が主に待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたって激しい戦いがあった。しかし、追い詰められて、首里城(那覇市)地下にあった司令部を捨て、日本軍は本島南部へしりぞく。大きな戦いはその後約1カ月間続いた。住民の被害は? 戦争は一般に軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦では、10代前半の子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も、武器をもたない住民も、まぜこぜになったまま地上戦がつづいた。 日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていった。こうしたことで、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたといわれる。かつて日本が統治していたサイパンやテニアン、サハリン、満州などでも地上戦があったが、いまの日本で多数の住民を巻き込む地上戦を体験したのは沖縄だけだ。 沖縄戦の教訓として「軍隊は住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はもちろんいる。でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした人たちがたくさんいる。地上戦の特徴とは? 太平洋戦争の間、日本本土では、飛行機から爆弾を落とされる空襲で大変な思いをした人がたくさんいる。一方、沖縄には米軍が上陸し、住民が暮らしていた場所で、米軍と日本軍が戦った。空からの攻撃にくわえ、陸からは銃や大砲、火炎放射器で襲われ、海からは艦砲射撃で狙われた。爆弾が大嵐のように降り注いだことから「鉄の暴風」とも言われる。米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだ。 地下に日本軍の司令部があった首里城も跡形もなくなった。地形も変わってしまったといわれる。とくに多くの住民が犠牲になった沖縄本島南部の喜屋武(きゃん)半島では、1カ月間に約680万発、住民1人あたり50発ほどが撃ち込まれたともいわれている。どれくらいの人が戦った? 米軍はおよそ55万人、日本軍はおよそ10万人。武器の量や性能をあわせた戦力の差は米国が日本の10倍以上だった。そのうえ日本軍の10万人のうち、2万数千人は、沖縄にいる一定の年齢の男子を急きょ兵隊として集めてつくられた「防衛隊」や「義勇隊」、いまの中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊」だった。 防衛隊の年齢は17~45歳というが、実際にはもっと幼い子どもや高齢の人もいたといわれる。軍隊の訓練も受けず、武器もないまま戦いに参加させられることもあった。学徒隊では「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」が代表例だ。いったい何人が亡くなった? 米国側は1万2520人。日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとみられている。このうち沖縄県出身以外の日本兵は6万5908人。沖縄県出身の軍人・軍属(正規の軍人、防衛隊や学徒隊など)は2万8228人。一般の住民は9万4千人。沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなったといわれている。 ただ、いずれも推計した数字だ。戸籍も焼けてしまって、亡くなった人の数ははっきりわかっていない。家族全員が死んでしまった家もたくさんある。名前もわからなくて戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」に、○○さんの「長男」とだけ彫られている人さえいる。子どもだった人のなかには、両親が亡くなって自分の生年月日も、名前さえわからない人もいる。 米軍の砲弾や銃弾を受けただけでなく、自ら命を絶つ「自決」で亡くなった人や、餓死や栄養失調、マラリアで死亡した人もたくさんいる。沖縄から疎開(避難)したのに亡くなった人もいる。沖縄戦前年の1944年8月、九州へ向かっていた船「対馬丸」が米軍に攻撃されて、多くの児童が海で溺れて亡くなる悲劇もあった。自決って? 自らのことを自分の意思で決めるという意味もあるが、軍人が自ら命を絶つ、つまり自殺することを「自決」と呼んだ。当時の日本軍には「戦陣訓(せんじんくん)」という教えがあり、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」、つまり捕虜になるくらいなら死を選べ、という考えが大切にされていた。沖縄の日本軍のトップ、牛島満司令官は、本島南部においつめられて「自決」している。大けがを負って洞窟内に寝かされたたくさんの軍人に、毒が入った飲み物が配られて死に追いやられたことを「集団自決」ということもある。 一方で、住民の「集団自決」もあった。米軍の激しい攻撃が続くなかで、家族や近所の人たちが壕(ごう)の中や森でまとまって命を絶つといったことが、慶良間諸島や伊江(いえ)島、沖縄本島各地で起きた。「集団死」と呼ばれることもある。日本軍は、住民も、役所も、兵士と同じように命をかけて国を守れという「軍官民共生共死」という指導方針をとって、住民が米軍に投降することもゆるさなかった。そうしたことが背景にあった。歴史教科書でなにが問題になった? 住民の「集団自決」については高校の歴史教科書を更新するときに、文部科学省と教科書をつくっている会社とのやりとりで「日本軍が強制した」という記述が削除されたことがある。それに対して「集団自決」を体験したり、体験を聞いたりしてきた沖縄県のたくさんの人たちが、大切な歴史を消さないで、と声をあげた。結果、「軍によって集団自決に追い込まれた住民も出た」「軍により、戦闘の妨げになるなどの理由で県民が集団自決を強いられた」といった表現が復活して盛り込まれたんだ。 削除された背景の一つとして、ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが書いた「沖縄ノート」という本をめぐる裁判があった。日本軍が「集団自決」を命じた、という本の記述について、当事者の元軍人らが命じていないと訴えたんだ。結果的には、最高裁判所が、個々の元軍人が直接命じたという証明はないと判断する一方で、「軍官民共生共死の一体化」の大方針の下で日本軍が深くかかわっていることは否定できないと結論を出した。全体として、日本軍の強制や命令とする見方もありえる、ともいっている。沖縄戦はどうやって終わった? 日本軍のトップだった牛島司令官が自決したのは6月23日(22日説もある)。この日をもって、日本軍という組織での戦いは終わった。このトップは自決の前に「最後迄(まで)敢闘し悠久の大義に生くべし」と命令を出したと言われている。つまり、降伏するのではなく、死ぬまで戦いつづけろ、と。 6月23日は、沖縄で「慰霊の日」として休日になっている。ただ、実際はトップの自決も知らずに、おびえながら逃げたり、隠れたりしつづけていた人もたくさんいて、6月23日以降に亡くなった人も多い。久米島では8月にかけて、日本軍が住民を殺している。米軍が沖縄戦を終えた、と宣言したのは7月2日。沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日だ。その後の沖縄は? 米軍は日本全体を占領し、基地を各地につくった。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立したんだけど、沖縄は切り離され、72年の本土復帰まで米軍統治下におかれた。その間、日本各地の米軍基地はどんどん減らされたけど、沖縄ではあらたにつくられたり、広げられたりした。その結果、日本にある米軍専用の基地の7割が沖縄に集中している。 一方、いまも地中には、沖縄戦で亡くなった何千もの人の骨が埋まったまま。撃ち込まれた爆弾で、たまたま爆発しなかった不発弾も約2千トンが地中に残っていて、戦後何十年もたってから爆発して亡くなった人もいる。 不発弾が爆発する。遺骨も墓におさめられない。米軍基地もたくさんある。「まだ戦(いくさ)は終わっていない」という人が多い理由はこうしたことにある。トラウマといって、何十年たっても、米軍機をみたり、戦争のニュースを聞いたりすると怖い体験を思い出して眠れなくなったり、気分が落ち込んでしまったりする人もいる。(木村司)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル