社会

瀬戸内寂聴さん「100歳」の誕生日 ふるさと徳島で納骨式

 昨年11月に99歳で亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの納骨式が15日、ふるさと徳島市の寺で営まれた。この日は、生きていれば100歳の誕生日。親族や、寂聴さんが徳島で開いていた文学塾「寂聴塾」の塾生ら約160人が参列した。 寂聴さんは生前、住職を務めた岩手県二戸市の天台寺、自宅でもある京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)、徳島の3カ所での納骨を望んでいた。 徳島市国府町の四国八十八カ…この記事は有料会員記事です。残り213文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

あの日の落差を私たちは埋められたのか 50年前の天声人語から問う

米軍の戦闘機=沖縄県嘉手納町 戦火のなかでふるさとを追われるウクライナの人たちの映像が連日、ツイッターやテレビを通じて流れてくる。世界に関心を持ち続けてこられなかった自分を恥じながら、同時に、この十数年に出会った何十人もの方たちの顔を、その壮絶な体験とともに思い出している。 逃げ惑うなか、8カ月の長女ら家族を次々と奪われた安里要江さん、兵士の看護役として17歳で戦場に送り込まれ、多くの友を失った島袋淑子さん、家族を手にかけ、十字架を背負って生きてきた金城重明さん。戦死した学友たちのため、あの戦争の意味を問い続けた元知事の大田昌秀さん……。 復帰50年を考える、復帰50年を伝えるとはどういうことか。コロナ禍に入った2020年春に2度目の沖縄に赴任して以来、考えを巡らせてきた。安保や経済、貧困、芸能、スポーツ。テーマや切り口は実に広く、21年春から同僚たちと様々な試みを続けている。 復帰を考えるために心に留めておかなければならない一つはやはり、沖縄戦だろう。日本復帰までの米軍占領の始まりがここにあるというだけでなく、日本という国が沖縄をどのように位置づけていたのか、その結果が何をもたらしたのかを知ることは本土と沖縄の関係、復帰50年を迎える日本のありようを考えるうえで欠かせない。このような大前提を確認したうえで、私は、復帰を考えるもうひとつの原点について書いてみたい。「長い長い占領は終った…」 ちょうど70年前の4月28日。サンフランシスコ講和条約発効によって、日本は独立を果たす。その当時、広く読まれた文章は次のように始まった。 《占領は終った。六年八カ月間の長い長い占領は終った……独立への新しい幕が開いた》 約800字の文章は、占領中の国民生活を振り返りながらこう続く。 《何といっても幸いだったこ…この記事は有料会員記事です。残り9669文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

沖縄の米兵、酒気帯び運転容疑で逮捕 「酒抜けたと思った」容疑否認

2022年5月15日 18時08分 沖縄県警は15日、米陸軍トリイ通信施設(読谷村)所属の特技兵スティーブン・ウィリアムス容疑者(23)を道路交通法違反(酒気帯び運転)の疑いで現行犯逮捕し、発表した。「ビールは飲んだが、眠ったのでアルコールは抜けたと思っていた」と容疑を否認しているという。 那覇署によると、ウィリアムス容疑者は15日午前6時15分ごろ、那覇市内の道路で、酒気を帯びた状態で車を運転した疑いがある。パトロール中の警察官が、道路の端に寄って走行していたウィリアムス容疑者の車を見つけた。調べたところ、呼気から基準値の約1・6倍のアルコールが検出されたという。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

両陛下、復帰50年式典にオンライン出席 「豊かな未来が沖縄に」

 天皇、皇后両陛下は15日、東京と沖縄で同時開催された沖縄復帰50周年記念式典にオンラインで出席した。天皇陛下は、沖縄に思いを寄せてきた上皇ご夫妻の姿勢を継承。沖縄の人々の多くの苦難を「決して忘れてはならない」として、思いを寄せ続けている。 「今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」 皇居・御所から出席した陛下は、沖縄には今もなお「様々な課題」が残されているとし、こう続けた。 疎開経験のある上皇ご夫妻は沖縄を繰り返し訪れ、戦没者を慰霊。戦争の傷痕や人々の苦しみに向き合った。昭和天皇の戦争責任を問う声が根強い中、皇太子ご夫妻時代の1975年の初訪問時に過激派から火炎瓶を投げられたが、上皇さまは「この地に心を寄せ続けていく」と談話で宣言。戦後50年の「慰霊の旅」などを含め、退位までにご夫妻で計11回訪れた。 上皇さまは天皇としての最後の誕生日を前にした会見で、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と発言。戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民のたゆみない努力で築かれたことを忘れず「戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切」と述べた。 陛下や秋篠宮さまは幼少期からご夫妻を通じて沖縄の歴史や文化を学んだ。ご夫妻はお子さま方を同席させ、沖縄から訪れた「豆記者」と呼ばれる学生と交流。6月23日の「沖縄慰霊の日」などに黙禱(もくとう)を捧げてきた。上皇さまが即位後は陛下や皇后さまが豆記者と交流し、2016年には愛子さまも加わってバレーボールを楽しんだ。代替わり後は秋篠宮ご夫妻が引き継いだ。19年の懇談には悠仁さまが初めて出席した。 陛下はこれまでに沖縄に5回足を運んだ。2010年に皇太子時代の陛下が沖縄県立博物館・美術館を訪れた際、館長として案内した元同県副知事の牧野浩隆さん(81)は「沖縄に対する知識や思いをお持ちで、豊かで平和な国家運営に関心を持たれていることに感動した」と話す。 陛下は戦後70年にあたる15年の誕生日前の会見で「戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」と述べた。即位前、戦没者慰霊の話題が出た際には戦争を知らない世代だからこそ、風化させないよう一層意識的になる必要性を皇室関係者らに示したという。今年2月の誕生日に先立つ会見では、沖縄の人々が多くの苦難を乗り越えてきたことを「決して忘れてはならない」と述べている。 側近は「両陛下には現地を訪れたいお気持ちが当然おありだ」と話す。10年に国立沖縄戦没者墓苑で陛下を出迎えた元糸満市長の上原裕常さん(73)は「足を運んでいただくことで沖縄の実情を見ていただき、県民の思いを理解していただければ」と期待する。豆記者を十数回引率した川満茂雄さん(75)は陛下が戦後生まれで、沖縄県民も世代交代が進んでいることに触れ、「上皇ご夫妻の平和に対するお気持ちは大切にされつつも、全てをまねされる必要はない。ご自身のお考えや新たな視点で県民とご交流いただければ」と話す。(多田晃子)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

復帰式典で岸田首相、玉城知事があいさつ 共に「辺野古」には触れず

 沖縄の日本復帰50年を記念する15日の式典で、岸田文雄首相と玉城デニー知事があいさつに立った。会場は、移設問題を巡って政府と沖縄県が対立する米軍普天間飛行場に近い沖縄コンベンションセンター(沖縄県宜野湾市)。だが、ともに移設問題には触れなかった。 岸田首相は、戦後27年間にわたり米軍統治下に置かれた沖縄が日本に復帰したことについて、「戦争によって失われた領土を外交交渉で回復したことは史上まれであり、日米両国の友好と信頼によって可能になったものだ」と強調した。 アジアの玄関口に位置する沖縄は「国際的な交流拠点として大きな可能性を秘めている」と指摘。基地問題については、復帰から50年が経った今も在日米軍専用施設の7割が集中する沖縄の現状を取り上げ、「重く受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と表明した。 続いて登壇した玉城知事は、復帰後は5次にわたる沖縄振興(開発)計画などで「本土との格差は縮小され、社会経済は着実に進展した」と述べた。 一方、全国平均の水準に届かない県民所得など「自立型経済の構築は道半ば」と指摘。米軍基地が集中する状況が続いていることには、「本土復帰にあたって県と政府が共有した『沖縄を平和の島にする』との目標は、なお達成されていない」として、「沖縄の本土復帰の意義と恒久平和の重要性」が国民全体で共有されるよう、政府に取り組みを求めた。(藤原慎一)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「怖いときは小鳥のように…」 堀江謙一さん、洋上から子どもと交信

 小型ヨットで米サンフランシスコから単独無寄港太平洋横断に挑んでいる海洋冒険家の堀江謙一さん(83)と、大阪府池田市の子どもたちが15日、アマチュア無線で交信した。 堀江さんは日本最東端の南鳥島をすでに通過した。地元のカブスカウトの隊員ら、小学生から高校生までの6人は「何を食べていますか」「雨の日はどうしていますか」などと質問した。堀江さんは一人ひとりの名前を呼びながら丁寧に回答した。 「怖くなったときは」との問いに堀江さんは「キャビンの中で小鳥のように震えています」と答え、みんなを笑わせた。中学1年の高橋優介さん(12)は「どことつながるか分からないのが無線の楽しさ」と話した。 堀江さんが60年前に初めて…この記事は有料会員記事です。残り147文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「空を見たい」と泣いたウクライナの少女、77年前と重ねた被爆者

 広島市安佐南区の津島休映(よしえ)さん(91)は、ここ2カ月間、テレビをつけるのをためらう日々が続いている。映し出される光景が、忘れたくても忘れられない77年前の記憶と似ているからだ。「ウクライナの人はどんなに怖くて、不安で、悲しいでしょう」 テレビでは、薄暗い地下室に避難しているウクライナの少女が「もう長い間、外に出られていない。空を見たい。太陽を見たい」と泣いていた。1945年、B29爆撃機の空襲を避けるため、防空壕(ごう)に駆け込んだ14歳の自分と重なった。 「私の夫はどこにいるの」と叫びながら、がれきの中を捜し歩くウクライナの若い女性もいた。77年前の夏、となりで被爆し、行方不明になった仲良しの上級生を捜す自分と一緒だった。 1945年8月6日。爆心地から約2キロの広島市尾長町(現・広島市東区)にある自宅から、市立第二高等女学校に歩いて向かっていた。 午前8時15分。猛烈な熱風…この記事は有料会員記事です。残り749文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

地上30メートル連絡橋まるで海の上 来場200万人突破の巨大水門

 【静岡】沼津港大型展望水門施設「びゅうお」がリニューアルされた。富士山や駿河湾、沼津市の街並みを一望できる観光名所が、新たな「映(ば)え」スポットとして生まれ変わり、ゴールデンウィーク中は多くの観光客でにぎわった。市にとって重要な観光資源の一つだが、本来の目的である津波を防ぐ能力については意外に知られていない。 「びゅうお」は、東海地震の津波対策として水門を県が建設し、展望回廊を沼津市が併設した施設だ。1997年に着工し、2004年9月に運用を開始した。名称は、景色や眺めを意味する「view(ビュー)」と「魚(うお)」を組み合わせた造語だ。 沼津港を訪れる観光客を呼び込み、展望回廊の来場者は3月に延べ200万人を突破した。4月22日にはリニューアル・オープンし、ゴールデンウィーク中は連日2千人近くが来場した。 リニューアルによって、雰囲気はずいぶん変わった。地上30メートルにある連絡橋の床は、海の上を歩いているような気分を味わえるほか、巨大深海魚が飛び出るようなトリックアートが施されている。市観光戦略課の担当者は「リピーターを増やすために、コンセプトに『映え』を意識した」と話す。 沼津観光の人気スポットとなっている「びゅうお」だが、総事業費は約43億円にのぼり、うち約39億円が水門部分だ。サイズも桁違いで、津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は幅40メートル、高さ9・3メートル、厚み4・5メートル、重量406トンと日本最大級という。沼津港の内港入り口に設置され、港に出入りする船舶の航行に支障がないよう扉体はふだんは水面から上がった状態になっている。 震度6弱相当の地震を感知し…この記事は有料会員記事です。残り767文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「うれしさも半分…」 50年前の新聞に残る父の言葉 思い馳せる娘

 「復帰祭り? やりません。ふだんと同じ営業をするだけです。うれしさも半分、というところではありませんか」 ちょうど50年前、1972年5月15日付の朝日新聞東京版に、こんなコメントが掲載されている。JR飯田橋駅近くで沖縄料理店「島」(東京都千代田区)を営む故・上地与市さんの言葉だ。 与市さんの次女で、いま店を切り盛りする山本文江さん(73)は、当時の紙面を手につぶやいた。 「この時の父は、どんな思いだったのでしょうね」     ◇ 与市さんは1916年、沖縄の離島、宮古島の農家に生まれた。戦前に島を離れ、東京の大学に入学。戦中は東京市役所(現都庁)に勤務した。戦後に退職し、書店を開いた。だが、書店は軌道に乗らず、62年、当時都内では珍しかった沖縄料理店を始めた。 与市さんは厨房(ちゅうぼう)に立つ傍ら、もうひとつの顔があった。閉店後、店内のカウンターに座り、故郷への思いを、字にのせた。 当時の週刊誌に、与市さんの投書が掲載されている。終戦後、沖縄に帰省するため、都庁に渡航申請の用紙を取りに行った時のことを振り返っている。 「中途でわたくしのペンは進まなくなり、両眼からは涙がとめどなく流れ出て、ついに申請用紙をぬらしてしまいました。と同時に全身から怒りがこみ上げてきました」「何故に貴国(米国)の許可が必要でしょうか」 与市さんの思いは、店の隅々に刻まれている。 「ほら、この『島』。肩が張…この記事は有料会員記事です。残り838文字有料会員になると続きをお読みいただけます。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

男性用トイレにもサニタリーボックス 膀胱がんや加齢による尿漏れ

 サニタリーボックス(汚物入れ)を男性用トイレにも置く動きが埼玉県内で広がっている。膀胱(ぼうこう)がんなどの影響や加齢で、日常的に尿漏れパットが欠かせない人やLGBTQ(性的少数者)への配慮からだ。(猪瀬明博、上田雅文、加藤真太郎) 県のまとめでは、県内で2018年、膀胱(ぼうこう)がんや前立腺がんと診断された男性は約6千人。これらの病気や加齢で、尿漏れパッドを付ける男性は少なくない。 加須市に住む日本骨髄バンク評議員の大谷貴子さん(60)は昨年6月、公共施設などの男性用トイレにサニタリーボックスがほとんど置かれていないと知った。大谷さんや当事者の声を聞いたさいたま市議が市議会でこの問題を取り上げた。 市が昨年8月に調査したところ、市内333公共施設の男性用トイレのうち、ボックスが置かれていたのは8施設だった。市は衛生面などの状況を見極めた上で設置を進め、市内の10区役所や文化センター、体育館など約120施設に設置した。 同市大宮区の男性(71)は数年前に大腸の病気にかかり、人工肛門(こうもん)を付けていた。勤務先や買い物に行く商業施設のトイレにはボックスがなく、人工肛門に付けた袋を取り換えるとかばんに入れて持ち帰っていた。「気持ちがめいって、外に出るのがおっくうになった。せめて多目的トイレに置いてくれたら当事者は助かる」という。 三郷市では先月初め、さいたま市の取り組みを参考に、各施設の意向を確認した。市内57カ所の公共施設で設置希望があり、市役所や図書館、体育館などに加え、多機能トイレがある市内18の公園にも置いた。「公園の多機能トイレへの設置は画期的」(日本トイレ協会の砂岡豊彦事務局長)という。足踏みペダルが付いたステンレス製を229個置いた。木津雅晟市長は「今後も多くの方が安心して利用できる公共施設の環境づくりに取り組む」と話す。 加須市は4月から本庁舎と3総合支所の男性用トイレの個室計24室に置いている。市の担当者は「病気の方のほか、LGBTQなど性的少数者の方にも配慮した」と話す。     ◇ 男性用サニタリーボックスの必要性を提唱した日本骨髄バンク評議員の大谷貴子さんは「こんなに反響があるとは思ってもみなかった」と驚く。当初、周りの男性の反応は鈍く、大半が「ないことに疑問を抱かなかった」「尿漏れパッドが必要になったら考える」などと話していた。 一方でボックスがないために不便を強いられている人の中には、パッドの使用を知られたくなかったと言う人が何人もいたそうだ。 尿漏れの要因は病気だけではない。男女の別なく加齢でも起こりうる。いまは健康増進のためにスポーツなどをする中高齢者向けに、様々なパッドやパンツ型のおむつも普及している。 大谷さんは「ボックスの常備は時代の要求。遅まきながら、それに気づいたということ」と受け止めている。 加須市は4月からのボックス設置の目的について、性的少数者への配慮にも言及した。「女性から男性になった友人がいる。これまでは生理用品を袋に入れて持ち帰っていたそうで、(設置を)喜んでいた」と大谷さん。これからも声をあげていこう。そう思いを新たにしたという。     ◇ 一般社団法人・日本トイレ協会(東京)は2月に開いたセミナーで「『男子だって汚物入れが欲しい!』~ジェンダーフリーなサニタリーボックスを!~」をテーマに議論した。 砂岡事務局長が「男子トイレにも汚物入れが欲しい。汚物入れという名前も含めて、みんなで考えていきたい」と問題提起した。10年ほど前、病気の治療で座薬を使い、ナプキンをあてていた経験を持つ。「病気の影響で自分の意思と関係なく漏れてしまい、日常的に尿漏れパットが欠かせない男性が増えている。高齢化で軽い失禁を経験する人も増えている。私もそうだったが、他人には話しづらい」と話す。 協会が2月に実施したインターネット上でのアンケート(回答者557人)で、尿漏れパットやおむつなどを使う男性の7割近くが、男性トイレにサニタリーボックスがなくて困った経験が「ある」と答えた。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル