「『石田敦志』をどうか忘れないで」京アニ遺族が会見

【動画】京アニ放火事件 遺族が会見=遠藤真梨、金子元希撮影

 「人生にこんなにも理不尽で悔しくて苦しくて悲しいことがあるとは思ってもいませんでした。胸が張り裂けそうです」

 事件で亡くなり、27日に身元が公表された石田敦志(あつし)さん(31)の父、基志(もとし)さん(66)が同日夜、京都府警伏見署で会見した。事前に用意していた文書を読み上げ、無念を訴えた。

 敦志さんは幼い頃からアニメに興味を持ち、「大きくなったらアニメの仕事がしたい」と語っていたという。ただ基志さんはアニメ業界を取り巻く労働環境を調べ、不安を覚えたことから当初は反対していた。

 だが夢をあきらめない敦志さんは福岡県内の大学に通いながら、夜間にアニメーションの専門学校で学ぶなどした。基志さんが課した最後の「ハードル」が、京都アニメーションへの就職。それを乗り越えた敦志さんについて、「採用通知を見たときは、正直びっくりしました」と語った。

 敦志さんは入社後、アニメーターとして、バンドを組む女子高校生を描いた「けいおん」シリーズの劇場版(2011年)や、高校の吹奏楽部を舞台とした「響け!ユーフォニアム」(15年)シリーズ、大ヒットした映画「聲(こえ)の形」(16年)など、数多くの作品で動画(原画と原画の間をつなぐ絵)を担当していた。

 入社間もないころ、先輩から「原画を目指すべきだ」とアドバイスを受けたというが、敦志さんは絵を美しくなめらかに動かすことに魅力を感じ、動画にこだわった。例えば登場人物が振り向くシーン。「人間の動作そのものを表現しないといけない」と、実家に帰省するとうれしそうに語っていたという。

 京アニでのキャリアは約10年に及んだ。主力アニメーターとして知られ、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(18年)で監督を務めた石立太一さんからは、厳しい意見が飛び交う中「雰囲気をやわらげてくれたのは石田君」と評された。「みなさんにかわいがっていただいていたんだな」と会見で目を細めた。

 「エンドロールに『石田敦志』の名前を見るのが家族一同楽しみだった」と語り、「親孝行だけをして逝ってしまった。私は彼には何もしてやっていない」と声を震わせた。

 事件が起きた7月18日、一報を聞いた基志さんは福岡県内の実家から車を走らせ、その夜に京都へ到着。関係者の家族が待機する部屋に入ると、すでに救助された人の名前が張り出されていた。だが、そこに敦志さんの名前はなく、京都府警からDNA型鑑定を実施すると告げられた。

 身元が判明したのは同24日。それから1カ月以上たつが、いまだに実感はないという。「遺影をうちに飾ってあるんですが、はにかんだいつもの笑顔がこの世にないのがどうしてものみ込めない。いまだに本当だろうかというのが正直なところです」と胸の内を明かした。「やっと円熟期にさしかかった、これから磨きがかかるのを楽しみにしていたのに、志半ばで逝ってしまいました」

 会見を開いた理由について基志さんは35人の犠牲者のことに触れ、「決して『35分の1』ではない。ちゃんと名前があって毎日頑張っていた」とした上で、「残った我々ができることは、記憶して忘れないでいただく。そういったことしかできない。だからこの場にいる」と説明。京アニの本社や、現場となった第1スタジオがある京都府宇治市や京都市について「特別なところが、悲惨なところになった」とし、慰霊碑の必要性を訴えた。

 「うまくしゃべれるかどうか」といって文書を用意した基志さん。末尾を読み上げるとき、力をこめた。

 「才能と想像力にあふれた多くの人材が亡くなり傷ついたことは、遺族や被害者のみならず、日本の大きな損失です。どうかみなさま、これからも敦志が愛した京都アニメーションを応援してあげて下さい。そして、『石田敦志』というアニメーターが確かにいたということを、どうか、どうか忘れないで下さい」(山本孝興、波多野大介)

父・基志さんが読み上げた言葉

 京都アニメーション第1スタジオで起きた放火殺人事件で亡くなり、身元が公表された石田敦志(あつし)さん(31)の父、基志(もとし)さん(66)が27日の会見で読み上げた文書の内容は次の通り。

     ◇

 私どもの敦志は、私にとっては、できすぎた息子でありました。温厚で人と争うことが嫌いな、優しい子でした。

 夢を追いかけ、高いハードルを何度も自力で飛び越え、夢をかなえました。そして、数々のアニメ作品に参加し、私たちに多くの夢と感動を残してくれました。本当に素晴らしい子でした。

 小さいころからアニメに興味を持ち、「大きくなったらアニメの仕事がしたい」とよく言っておりました。最初は、子どもがプロスポーツに憧れるようなものだ、と私は思っていました。しかし、長ずるにつれ、これは本気だな、と思うようになりました。けれども、私の知る限りでは、アニメ業界のクリエーターの環境は決して恵まれた環境ではないと、調べれば調べるほど不安になり、アニメ業界に入ることを私は最初、反対しました。それでも敦志は決して諦めず、私が与えた課題を拒否することもなく、きっと私ども親を苦しめたくなかったんでしょう。アニメの勉強と学業を両立させ、自力で次々とクリアしていきました。そして、この最後の課題、私が与えた最後の課題が京都アニメーションでした。

 クリエーターたちにとって、過酷な環境が多いアニメ業界において、京都アニメーションは、唯一といっていいと思います。クリエーターの生活保障がしっかりしていて、クリエーターを大事にする会社と知ったからです。もしここに入ることができるのなら、私も心から応援できると思いました。しかし今思えば、ずいぶん遠回りをさせてしまったと反省しています。

 それからこんなエピソードもございます。入社間もないころ、先輩から「アニメーターはやはり、原画を目指すべき」というアドバイスを頂いたそうです。そのことは、本人も納得しつつも、ここが敦志らしいと思いました。しかしながら、動画を自然にしかも美しく動かすことも非常に魅力を感じると、私に言っておりました。実に敦志らしいな、とその時思ったものです。自然にしかも美しく動かす。ここにこだわった10年間であったように思います。やっと円熟期にさしかかった、これから彼が本当に磨きがかかる、これから彼が本当に表現したかった「自然にしかも美しく」に磨きがかかるのを楽しみにしていたのに、31歳の志半ばで逝ってしまいました。

 この悲しみと怒りは筆舌に尽くしがたいものがあります。人生の過酷さは知っているつもりではありましたが、人生にこんなにも理不尽で、悔しくて、苦しくて、悲しいことがあるとは思ってもいませんでした。胸が張り裂けそうであります。

 入社が決まり、敦志の引っ越しの時、京都アニメーション本社にごあいさつに行った時の話です。わざわざ専務と、当時の総務部長がわざわざ対応されて、その専務の言われるには「この業界に息子さんを送り出すのにはさぞご心配でしょう。でもお父さんご安心ください。弊社で3年頑張れば、この業界、どこにいっても通用する人材になることは間違いありません。そういう人材しか採用していません。どうか応援してやってください」とのことでした。

 私はそのころにはすでに京アニファンになっておりましたから、素晴らしい作品を生み出した京都アニメーションで我が息子がお手伝いできるのは大変光栄です、と私が応じると、専務は「そうではありません。お父さん。手伝うのではなく、一緒に作るんです」。まだ入社もしていない息子を一人前として処遇する専務のお言葉に大変感激したのを今でも鮮明に覚えています。その後、今回被害に遭った第1スタジオに案内してくださり、有名な監督を直接ご紹介していただき、感激もひとしおでした。最後に玄関口でごあいさつをと思った時に、その壁に私が京アニ作品の素晴らしさに出会った最初の作品である「AIR(エアー)」のポスターが目に入ったので、私が別れのごあいさつのつもりで、「こんなに素晴らしい作品のお手伝いを……」と言い終わらないうちに、今度は総務部長が「いえ違います。お父さん。一緒に作るんです」とのことでした。私はその言葉で、これは単なる外交辞令ではないなと感じ、ここなら大丈夫。と確信したことを昨日のように覚えております。

 京都アニメーションの経営理念はクリエーターと作品を大事にする素晴らしい会社です。この度、たった1人の卑劣な犯罪者のために、まだまだ多くの素晴らしい作品を輩出したであろう、才能と想像力にあふれた多くの人材が亡くなり傷ついたことは、私ども遺族や被害者家族のみならず、日本の大きな損失です。なくしてはならない存在です。このような人材は決して一朝一夕にできるものではありません。残念でなりません。

 どうか皆さま、これからも敦志が愛した京都アニメーションを応援してあげて下さい。そして、石田敦志というアニメーターが、この京都アニメーションに確かにいたということを、どうか、どうか忘れないで下さい。心よりお願い致します。

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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