「敵機のゐるところで、パッと光が出た」14歳がつづった戦争の日常(西日本新聞)

 福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記

七月二十五日(水)晴後曇

 作業は運搬。  十二時頃、ちやうど辨當(べんとう)を三口ぐらい食べた時、空襲警報が出たので、場外待避をした。  バスで歸(かえ)らず歩いて歸った。  三時十分警戒警報  十二時空襲警報

七月二十六日(木)

 九時一〇分出勤。作業は加工班(班長染川)と共に事務所裏の紙袋をおきかへて、下にうづまってゐる軸受(直徑(ちょっけい)二糎(センチ)―四糎)をとり出す作業。袋についてゐる粉のため、大いによごれた。空氣(くうき)も粉でわるく、鼻がいたかった。みんな体中眞白(まっしろ)になった。だいたい午後までかゝると思はれてゐた作業を午前中にしてしまったので、晝(ぴる)前で作業をやめて、その後○時二十分より隣組の編成があり、それから、すぐ歸(かえ)った。  父宿直のため、自轉車(じてんしゃ)でかへる。五銭で空気入れ。  今日の作業中、軸受が足に落ちて來(き)たのが少し痛んだので、ヨードチンキをつけた。  ○時半空襲警報  十五時三十五分空襲警報

七月二十七日(金)曇

 今朝はB29がてっきり久留米にくるものと思ひこんで、びっくりした。ラヂオは「久留米嚴戒(げんかい)を要す」と三回位いったし、B29は單機(たんき)づゝで何回も上空を通過するし、照明彈(だん)は二発久留米の東の方に落ちるのがみとめられたし、實際(じっさい)びっくりした。久留米に必ず來(く)ると思ったので、大急ぎで自轉車(じてんしゃ)を松本さんへあづけ、ラヂオも外して國武(くにたけ)さんの防空壕へ入れたが、空襲はなかったので、ほっかりした。道から南の空を見たら、淡く紅に空がそまってゐた。大牟田の火災もひどいらしいが、六・二〇の福岡よりは、ずっとおとってゐる。  自轉車にて登校す。家を出る時は、だるくてたまらなかった。晝辨當(ひるべんとう)は半分しか食べなかった。腹が少し痛む。  作業はロールの方が仕事はなかったので、ロールの建物のむかひの建物の軒下の石炭をバケツに入れる作業をした。加硫(加工)班といっしょに三十分交代で。途中、場外待避を一度した。今日は山本君は缺席(けっせき)した。  二十時半頃、警報も出ずに、大型一機が來(き)て、久留米の上をとほった。そして敵機のゐるところと思はれるところで、パッと光が出た。ちやうど敵機を探してゐた僕は、眼がくらんでしまった。父はその時丁度(ちょうど)道を通ってゐて、上を見てゐたら、パッと光ったので、ヤラレタと思って、電柱にしがみついたさうである。それから二十分位して、又(また)大型機がきて通過した。高射砲をうった。  今朝のB29を附近(ふきん)に二三機撃墜したとのこと。 ○時一分空襲警報  十二時二十分空襲警報  十四時十五分空襲警報  二十時半警戒警報  二十時五十分警戒警報  【注釈】▽高射砲…1500~7千メートルの高度で侵入する敵機を迎撃する防空砲火。1万メートルの高度を保てるB29に対しては無防備に等しかった  ▽パッと光った…「久留米が燃えた日」(古賀正浩著)によると「アメリカが久留米空襲のために航空写真を撮っていったのだろう」とうわさされたという  ※福岡県久留米市出身の竹村逸彦さん(89)が14歳だった1945年に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しています

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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