「父は密告者だった」家族崩壊の傷深く  東の監視社会、犯人野放しに ベルリンの壁崩壊30年(2)  (47NEWS)

 信じられない気持ちで書面を読み進めた。友人らの名前や彼らと会った時期が記され、兄の結婚式で出席者が何を語ったのかも詳細に書かれていた。東ドイツの秘密警察(シュタージ)が作成した自分自身に関する調査文書。1500ページを超え、日常が暴かれていた。誰がシュタージに伝えたのか―。そして気付いた。密告したのは父だった。(共同通信=森岡隆)

 ▽外国への憧れ、その先に待っていたもの

 アンドレアス・メールシュトイブルさん(54)は1992年、自分の調査文書に初めて目を通した。東西ドイツ統一から2年たち、本人の閲覧が可能になった。東ドイツに生まれ、体制拒絶を意味する母国からの出国を申請し、当局から圧力を受けていた。西ドイツへの脱出を図った過去もある。自分の文書が存在するのは分かっていたが、父の密告は予期しなかった。自宅の電話も盗聴され、全ては筒抜けになっていた。崩れ落ちそうだった。

 シュタージは反体制派摘発のため、国民を徹底的に監視し、一般市民を情報提供者に仕立てていた。父はシュタージに頼まれ、協力を約束したのだ。「自分も兄も父との関係を絶った。母は苦しんだと思う。家族が崩壊したのだから」

 メールシュトイブルさんは幼い頃から外の世界に憧れ、外国に行ってみたかった。しかし、東ドイツ人が旅行できるのは東欧などの社会主義国だけ。遠くに行きたいと応募した船員の職も学業不振で不採用になった。当時、20歳を過ぎた頃だった。兵役が迫る中、鳥かごに閉じ込められたような母国に残る理由はなかった。

 国を捨てて西ドイツに行こう。87年6月、誰にも相談せず、東ドイツの同盟国で西ドイツと接するチェコスロバキアに列車で向かった。東西ドイツ国境より逃げやすいかもしれない。国境の警備態勢を見たことはなかったが、単純にそう考えた。

 列車を降りてコンパスを手にチェコの国境地帯の森を歩き続け、朝早く西ドイツとの国境にたどり着いた。監視塔が立ち、金属柵が幾重にも巡らされていた。あまりの警戒ぶりに驚いたが、意を決して進む。二つの金属柵を工具で切断して越えた。その時、車のブレーキ音が響き、とっさに伏せた。万事休す。射殺は免れたが、チェコの国境警備隊兵士に捕まった。


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Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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