「生きていたら一緒に…」 戦死した兄から継いだ楕円球

 第100回全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。1918(大正7)年に始まった大会は、他の競技と同じく戦争による中断を余儀なくされた。楕円(だえん)球を追う少年たちは戦時下、どんな環境に置かれ、どのように復興期を歩んできたのだろう。戦後75年の冬。節目の大会を前に、当時のラガーマンたちを訪ねた。

 兄がラグビーとの縁を結んでくれた。大岩重雄さん(92)=大阪市西区=は1942年、大阪の旧制北野中(現北野高)に入学した。五つ上の寛(ひろし)さんは北野中のラグビー部員だった。試合には出られなかったが、4、5年時にチームは全国中学大会に出場した。

 重雄さんが入学するとすぐ「兄さんもやっていたんなら」と強引に誘われた。前年12月8日、太平洋戦争が始まった。戦況の激化で42年1月の全国大会は関西と九州に分かれて開催され、北野中は関西で優勝していた。

 当時の旧制中学は5年制で現在の中1から高2にあたる年齢の生徒が在籍した。上級生とは体格差がある。「まともに当たったら飛ばされる。その分、一緒にしっかり走りました」。入部後、夢中になっていく。孤独な感じがするバックスよりも、「仲間とごちゃごちゃやる」フォワードが性に合っていた。

 2年生だった43年の秋、埼玉の陸軍航空士官学校を卒業して、航空隊員になっていた寛さんが帰省した。食事中、寛さんが言った。「この戦争は負けだから、職業軍人である自分たちが一番先に死ななければいけないんだ」。負ける、という言葉に驚いた。「行ってやっつけてくれ」「帰ってきてくれ」。そんな気持ちになったことを覚えている。

 半年ほどたった。家に帰ると、…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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