「貴女の心もいつしか…」戦死の祖父が送り続けた“ラブレター”(西日本新聞)

 「戦死した祖父の事をもっと知りたい」。福岡市の北本直子さん(49)から、あなたの特命取材班に連絡があった。レイテ沖海戦で亡くなったと言われていた海軍少尉の祖父が、実は陸上で戦死していたことが最近はっきりしたという。鼻筋が似ていると言われる写真の中の祖父。北本さんと共に足跡をたどった。 【写真】戦場から送られた「ラブレター」  「小さい頃、フカヒレは食べたらだめだと母に言われていました」と北本さんは話す。乗っていた軍艦が撃沈され、祖父がサメに食べられたかもしれないというのが理由だ。ただ、いつ頃からか、親族の間で祖父は陸で戦死したと言われるようになった。

 詳しい理由を聞かないまま、2003年に母紀代子さんが死去。翌年に祖母チエ子さんも亡くなった。疑問を解消しようと18年に厚生労働省から軍籍を取り寄せ、19年には海軍関係の博物館も訪ねた。戦死の状況はある程度把握できたが、祖父がどんな人物だったのかまでは分からない。そんな折、特命取材班から「戦争の記憶」に関する情報提供の呼び掛けがあった。  祖父、渡瀬次男さんの軍籍を見せてもらった。  1944年6月に駆逐艦夕月への乗り組みを命じられた次男さんは、同年10月のレイテ沖海戦には参加していない。その年の12月、フィリピン・レイテ島への海上輸送作戦中に米戦闘機から攻撃を受け、夕月は沈没。船を失った乗組員は海軍陸戦隊に編入され、首都マニラの防衛に当たった。45年2月、上陸してきた連合国軍と市街地で戦闘になり、「壮烈なる戦死を遂げた」と軍籍には記されていた。29歳だった。

「文章を書くのが上手だった」

 次男さんには、一回り年が離れた弟がいた。北九州市の渡瀬卯二生(うじお)さん(93)。戦後、マニラ市街戦の生き残りを鹿児島県に訪ねた際、「切り込み隊になって敵に突撃し、全員死んだ」と聞かされた。卯二生さんは「兄はきちょうめんで手紙をよく書いていた。文章を書くのが上手だった」と話した。  筆まめだった次男さんが妻チエ子さんに宛てた手紙が、故郷の熊本県に残っているという。  球磨川に面する熊本県人吉市の菩提(ぼだい)寺を北本直子さん(49)と訪ねた。29歳で戦死した祖父渡瀬次男さんの納骨堂の棚を開けると、奥に100通もの手紙が保管されていた。祖母チエ子さんが長年、箱に入れてしまっていたもので、亡くなる直前、「一緒にひつぎに入れてほしい」と家族に頼んでいた。葬儀の席で初めて手紙の存在を知った北本さんは一部を除いて焼かずに残したままにしていた。  軍服と着物姿で並ぶ2人の写真に手を合わせた後、北本さんは手紙の束を取り出し、数通に目を通した。直接的な愛情表現こそないものの、それは次男さんがチエ子さんに宛てたラブレターだった。

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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