「赤報隊」の支局襲撃から35年 116号事件が今に問いかけるもの

 1987年5月3日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に男が侵入して散弾銃を発砲し、記者2人を殺傷した。犯行声明を報道機関に送りつけながら「赤報隊」は事件を重ね、いずれも未解決のまま2003年に完全時効となった。35年前の憲法記念日に放たれた銃弾は、分断と不寛容が指摘される現代に、何を問いかけているのか。

 あの日の午後8時15分。阪神支局に散弾銃を持った目出し帽の男が無施錠のドアから入ってきた。いきなり犬飼兵衛(ひょうえ)記者(18年に73歳で死去)を、次に小尻知博記者(当時29)を撃った。小尻記者の体には薬莢(やっきょう)内の容器が入り込み、散弾粒約200個がはじけ、翌日未明に亡くなった。犬飼記者は右手の小指と薬指を失う重傷だった。

 事件から3日後、東京の共同、時事両通信社に声明が届いた。差出人は「赤報隊 一同」だった。

「赤報隊」名乗る犯行声明は8件

 赤報隊を名乗った犯行声明と脅迫文は、阪神支局襲撃を含めて8件あった。

 87年1月に東京本社の窓に散弾銃が撃ち込まれたのが最初の事件。2日後に声明文が通信社に届いたが、公にはならず、警視庁が弾痕や散弾粒を確認したのは8カ月余り後だった。阪神支局襲撃後の声明文には、東京本社で発砲して「警告文」を送ったが、無視されたとして「天罰をくわえる」と記されていた。

 87年9月、名古屋本社の社員寮で、居間兼食堂のテレビに散弾銃が撃ち込まれた。居間には誰もいなかった。近所の住民が発砲音を聞き、寮から出てきた目出し帽の男を目撃した。通信社に届いた声明文には「反日朝日は 五十年前にかえれ」と書かれていた。50年前の37年は日中戦争が始まった年だ。

 警察庁は87年9月、阪神支局と名古屋寮の事件を「広域重要指定116号事件」に指定。後に東京本社などの事件が追加された。

 静岡支局の駐車場では88年3月、時限式爆発物が仕掛けられ、不発だった。同じ頃、首相だった竹下登氏の実家、前首相の中曽根康弘氏の事務所にも脅迫状が届いた。靖国神社の参拝を求める内容で、後者では当時論議を呼んでいた教科書問題にも触れていた。警察は竹下氏への脅迫を伏せていた。

 88年8月には東京のリクルート前会長(当時)の自宅玄関で弾痕と散弾粒が見つかった。「朝日に金をだすなら リクルートを処刑する」との声明文が通信社に届いた。90年5月には名古屋市の愛知韓国人会館が放火され、ガラスが割れて壁が焦げた。声明文は韓国大統領の来日中止を求める内容だった。

銃、弾、ワープロ、思想…… 警察は追った

 犬飼記者らの証言から、阪神支局を襲撃した男は20~40歳前後、身長165センチ前後とされた。銃は12番口径の2連銃とみられ、弾は米国レミントン社製のピータース7・5号弾と判明。この弾は射撃用に輸入され、全国で約1千万発が販売されていた。現物が残る声明文はいずれも同じワープロで作られていた。警察は約2万4千台の所有者を割り出したが、大量販売の壁に阻まれた。

 声明文で使われた「赤報隊」は、幕末に結成された勤皇の志士集団として実在していた。年貢半減を掲げて倒幕のため進軍したが、明治政府に疎まれて偽官軍として処刑された。

 兵庫県警は近代史に精通した人物が関与した可能性があるとみて、思想的背景を追った。

 警察庁は98年、重点捜査の対象者として9人を挙げたが、事件とのつながりは確認されなかった。同県警は03年の完全時効までに延べ62万人を投入した。

 捜査関係者らによると、一連の事件の現場に残っていた資料の一部は保管されているという。

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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