「隣人」の心地よさ ドブさらいで見えたコミュニティー

近藤康太郎の「多事奏論」

 溝浚(みぞさら)へして隣人となりにけり 中村正幸

 溝浚へ、つまりドブさらい。下水が発達していなかったころ、隣近所が協力してドブをさらい、夏の悪臭を防いだ。

 百姓も、田植え前は丁寧に溝をさらう。長崎・旧田結村で、わたしは棚田を耕している。今年は耕作放棄地を新たに開墾し、当初の10倍に増やした。沙汰の限りである。鍬(くわ)で溝を掘り、水を含んだ重い泥をかき上げるのは、背中が割れる重労働だ。勉強を教え、ただめしを食わせている塾生たち、他社の若い記者やカメラマンが見かねて手伝いに来てくれる。「溝さらいは、初夏の季語ですからね」。俳句に凝って勉強している芳一(35)が、鼻の穴を膨らませて、きいたふうなことを言った。

 ひとつの棚田で溝さらいをさぼれば、山水は上から下へきれいに流れない。とくに取水口付近の溝は利用する百姓全員でさらう。草刈りする。集落全体でひとつの「生き物」なのだ。溝をさらい、草刈りする。しぜん、コミュニティーの生態系に組み込まれる。ご近所さんが塾生のために駐車場を貸してくれる。昼の弁当を差し入れてくれる。げに「隣人となりにけり」である。

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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