【ライブ配信中】最終日迎えた聖徳太子1400回忌法要

 今年は聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのおうじ)、574~622)の1400回忌にあたる。100年に1度の節目、奈良の世界遺産・法隆寺では4月3、4、5日の日程で遠忌(おんき)法要が始まった。実は100年前の大正時代には、実業家の渋沢栄一(1840~1931)が1300年遠忌法要の実現に尽力していた。(岡田匠)

 朝日新聞デジタルでは4月3~5日の法要の様子を、動画でライブ配信します。(電波の状況などにより、画像が乱れたり、配信が一時停止したりすることがあります。ご了承ください)

 法隆寺は明治初期、政府が出した上知令で領地を没収され、寺を維持するのに苦労していた。1878(明治11)年に宝物を皇室に献納し、下賜(かし)された1万円で伽藍(がらん)や寺宝を守ってきた。1300年遠忌法要の実現には、財政支援が必要だった。そこで渋沢栄一が立ち上がった。今年のNHK大河ドラマの主人公でもある実業家だ。新1万円札の顔になることも決まっている。

 渋沢は法要の3年前の1918(大正7)年、奉賛会をつくると、今の上皇さまの祖父の久邇宮(くにのみや)邦彦(くによし)を総裁に、紀伊徳川家15代当主の徳川頼倫(よりみち)を会長にたて、渋沢は副会長に就いた。18年5月17日付の東京朝日新聞には「聖徳太子千三百年遠忌 奉賛会設立さる」の記事が載り、徳川や渋沢の名前もある。

 太子をたたえる歌も作られた。奉賛会は19年2月28日付の紙面に「聖徳太子讃歌懸賞募集」の広告も掲載。20年1月27日付の記事で「讃仰(さんぎょう)唱歌決定 来(きたる)三十日発表」と報じられている。

共に1万円札の肖像となる太子と渋沢 その縁とは

 法隆寺の法要や、太子の墓がある叡福寺(えいふくじ)(大阪府太子町)の法要などの予算計45万円は寄付でまかなうことにした。21年4月2日付の紙面には「太子御遠忌に御下賜金(ごかしきん) 東宮殿下より」の記事も見える。当時は皇太子だった昭和天皇が法隆寺と奉賛会にそれぞれ500円を寄付したと伝えている。

 法要は4月11~17日の1週間にわたった。皇室をはじめ、当時の原敬首相も参列した。参拝者は約26万人に上ったという。東京朝日新聞にエッセー「法隆寺詣で」が掲載され、「汽車の混雑には殆(ほと)んど閉口」「早旦(そうたん)五時に名古屋を出る汽車が忽(たちま)ち満員」「奈良に向(むか)う人の繁(しげ)さ」と描かれた。

 奈良大学の東野(とうの)治之(はるゆき)名誉教授によると、国を挙げての法要になったのは、明治になって天皇中心の国づくりが進んだことが影響している。太子は外国の文化を採り入れるだけでなく、日本の文化も大事にし、天皇中心の政治を打ち立てたと当時は考えられた。

 「太子が豪族ではなく、皇室の人物であることも大きい。信仰の対象としての太子から、歴史上の偉大な指導者として評価されるようになった」という。

 渋沢もこうした流れの中にあった。太子は江戸時代、日本古来の神道を軽んじ、海外から伝わった仏教を重んじたと国学者や儒学者に非難された。渋沢も同じような考えだったようだが、その後、親交のある歴史学者や美術行政家に説得され、太子を慕うようになったという。

 法隆寺にも1300年遠忌の機運に乗り、寺を興隆させたいという思いがあった。法要後の34(昭和9)年には、当時の文部省が法隆寺を国として守っていく法隆寺国宝保存事業部を設けた。

 東野名誉教授は「1300年遠忌をきっかけに法隆寺はより一層、特別な寺になった。貴重な文化財があり、太子が建てた寺として、格別なあつかいを受けるようになった」と話す。

聖徳太子とは…仏教中心の国づくりと超人的な伝説

 574年、奈良・飛鳥にある厩戸(うまやど)の前で生まれたとされる。蘇我馬子とともに推古天皇を支え、仏教中心の国づくりを進めた。十七条憲法を定め、法隆寺を建てた。仏教の経典を講義し、内容を解説した法華義疏(ほっけぎしょ)などを著した。622年2月22日に亡くなったと伝わる。その生涯は諸説ある。死後、聖徳太子を観音の化身と仰ぐ太子信仰が広まり、10人の話を一度に聞き分けたなど超人的な伝説も多く残る。旧1万円札の肖像画にも使われた。

 100年前が国を挙げての法要なら、聖徳太子1400年遠忌の今年はコロナ禍での法要となる。法隆寺執事長の大野正法(しょうぼう)さん(68)は「多くの人にお参りに来てもらいたいが、大勢が集まれば密になる。しかも新型コロナの状況は先が見えず、翻弄(ほんろう)されてきた」と明かす。

 今回の初日となる4月3日の旧暦が太子の命日の2月22日にあたることから、大野玄妙(げんみょう)・前管長が日程を決めた。だが、大野前管長は2019年10月に肺がんで急死。今の古谷正覚(しょうかく)管長が中心になって準備を進めたが、20年に入ると新型コロナウイルスが広まった。

コロナ禍の遠忌法要「僧侶たちの使命感」

 法要の延期や参拝者を入れずに僧侶だけで営むことも考えた。一時、感染状況が落ち着いた昨年秋ごろ、予定通り実施することを決めた。「法隆寺の僧侶はみな、太子をたたえる法要をしっかりとやるんだという使命感を持っている」と話す。

 法要では、7歳の太子の姿とされる太子七歳像と、南無仏舎利(なむぶっしゃり)をまつる。南無仏舎利は2歳の太子が東を向いて手を合わせ、南無仏と唱えると手のひらからこぼれ落ちた仏舎利(釈迦(しゃか)の遺骨)と伝わる。

 3日は東院伽藍(がらん)から行列が出発し、太子七歳像と南無仏舎利を大講堂へ運んだ。5日までの期間中、太子ゆかりの寺や、東大寺や興福寺など奈良の大寺院の僧侶がお経を唱え、舞台では舞楽の奉納がある。コロナ対策として行列の規模を縮小したほか、参拝者の状況によっては入場を制限することもあるという。

 大野さんは、今に生きる太子の教えとして、「和をもって貴しとなし」で始まる十七条憲法の和の精神を挙げる。「一人ひとりの存在を認め、差別もなく、争いのない平和な世界をつくる。そのためには自分のことだけでなく、相手の気持ちを尊重し、下の者の意見を聞き入れ、よく話し合う。太子の和の精神が今の世の中にも大切になる」と話す。

 太子ゆかりの寺なども法要を予定している。

 叡福寺は4月10日から5月11日に大法会を営む。「日本仏教の祖」「和国の教主」と称される太子をたたえ、華厳宗の東大寺、天台宗の延暦寺、高野山真言宗の金剛峯寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の西本願寺・東本願寺、日蓮宗など各宗派の僧侶が読経する。

 太子の創建と伝わる四天王寺(大阪市)は2021年秋から来春にかけて遠忌法要を予定する。太子ゆかりの斑鳩寺(兵庫県太子町)は22年に営むという。

 奈良県や斑鳩町など太子ゆかりの自治体は観光客を呼び込みたい考えだが、コロナ禍のため頭を悩ます。斑鳩町は3~4月に予定していたイベントの延期を決めた。県は21年度予算案に7350万円を計上し、リレー講座やウォークイベントを予定するが、積極的なPRができない。県文化資源活用課の酒元健司課長は「現場にきて本物に触れてもらいたいが、コロナ禍で難しい。悩みながら進めている」と話す。


Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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