【速報中】長崎市長、広島ビジョン批判 核抑止論から「脱却を」

 1945年8月9日、長崎に落とされた一発の原子爆弾が、7万3884人もの命を奪いました(45年末時点)。日常が一瞬で奪われた、あの日から78年。「長崎を最後の被爆地に」との願いを次の世代につなげるための平和祈念式典が今年も開かれます。台風接近のため、屋内開催となりましたが、この日が持つ意味は変わりません。8日から9日にかけての出来事を速報していきます。

■■■8月9日(日本時間)■■■

11:50

工藤武子さん 「平和への誓い」訴え終え、ほっとした表情 

 「平和への誓い」を読み上げた工藤武子さん(85)は平和祈念式典終了後、「台風の中でも、なんとか誓いを述べることができてよかった」とほっとした表情で話した。市関係者のみでの式典となったため、被爆者を代表して献花もした。「被爆者のみなさんの願いは核兵器廃絶と平和な世界の実現。これが一番大切だと思って参列した」

 工藤さんは被爆者の平均年齢と同じ85歳。誓いでは、次世代への継承にも触れた。「これからは、後継者に伝えることに特に力を入れて頑張っていきたい」と笑顔を見せた。

11:50

工藤武子さんの夫「妻の言葉、みなさんに伝われば」

 式典後、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた工藤武子さん(85)の夫・勇二さん(82)が報道陣の取材に応じた。

 勇二さんは、武子さんが子どものころの家族写真を手にしながら誓いを聞いた。「お墓に入った妻の家族にも聞かせようと思って」と勇二さん。「自分の欲を優先するばかりでなく、他人のことを考えれば原爆なんてなかったはず。平和でありたいです。(妻の)言葉がみなさんに伝わるといい」と話した。

11:30

ビデオ出演の長崎知事 世界の指導者に向け「被爆の実相に触れて」

 長崎県の大石賢吾知事がビデオメッセージを寄せた。核なき世界の実現のため、世界各国の指導者にこう呼びかけた。「自ら被爆地を訪れ、被爆の実相に触れて下さい。そして、人類が作り出した核兵器は、人類自らの意思によって、なくすことができるという信念を我々と共有してください」

 一方、「核兵器の問題は、環境汚染や気候変動と同じく、持続可能な未来の実現に直結する」として、「同じ地球上に共に暮らす私たち一人ひとりが認識し、核兵器廃絶に向けて行動することが必要だ」と呼びかけた。

11:25

国連事務総長 「核廃絶は国連における軍縮の最重要課題」

 アントニオ・グテーレス国連事務総長のあいさつを、司会が代読した。「被爆者の皆様の名において、そして1945年にこの地で起こったことを心に刻み、核兵器廃絶を国連における軍縮の最重要課題であると宣言します」と誓った。

 一方、「私たちは、核保有国同士が、より危険な兵器を作り出そうと繰り広げている軍拡競争を、黙って見ているつもりはありません」と述べた。その上で「核のリスクを排除する唯一の方法は、核兵器を廃絶すること」と訴えた。

11:20

岸田首相はビデオメッセージ「核軍縮の機運高める」

 岸田文雄首相は平和祈念式典への出席を見送り、ビデオメッセージを寄せた。「核兵器のない世界の実現に向け、核兵器不拡散条約を国際社会が結束して維持・強化するよう訴えつつ、国際社会の取り組みを主導する」とあいさつした。

 首相は、「被爆の実相を世代と国境を越えて伝えていくことは、核軍縮に向けたあらゆる取り組みの原点として重要だ」として、「長崎や広島を訪れる世界中の人々に、被爆の実相に触れ、平和への決意を新たにしていただきたい」と語った。

 また、「ロシアによる核の威嚇が行われる中で、核兵器のない世界の実現は一層厳しいものになっている」と指摘。5月のG7広島サミットに触れ、「確かな成果を土台として、核軍縮の進展に向けた機運をより一層高めていく」と述べた。

11:05

長崎市長、広島ビジョン批判 「核抑止への依存から脱却を」

 長崎市の鈴木史朗市長が「平和宣言」を読み上げた。今年5月に広島であった主要7カ国首脳会議G7サミット)に言及。核軍縮に関する「広島ビジョン」が肯定した核抑止論について「私たちの安全を守るためには、地球上から核兵器をなくすしかない」と批判し、「今こそ核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべだ」と呼びかけた。

 鈴木市長は宣言で、16歳で被爆して背中に大やけどを負った故・谷口稜曄(すみてる)さんの言葉を引用。「原子雲の下で人間に何が起こったのかという原点に立ち返り、核戦争が始まったらどんなことが起きるのかという根源的な問いに向き合うべきだ」と訴えた。

11:02

「11時2分の風景」写真に残し続ける 今年はじいじと孫で

 長崎市内の繁華街、浜の町アーケードでは原爆が投下された「午前11時2分」にアーケード内にサイレンが響き、行き交う人が足を止めて犠牲者らへ黙とうを捧げた。その街の様子に、被爆者の小川忠義さん(79)がカメラを向けていた。小川さんは長崎原爆から78年が経ち歴史の風化を懸念し、市民が平和の尊さを改めて考える機会にしようと約10年前から「日常」を感じ取れるアーケード内の同じ場所で、「午前11時2分の風景」を切り取り発信している。

 今年もカメラを向けると行き来する人が目を閉じて足を止める姿があった。アーケードにある11時2分を示す時計に対峙(たいじ)し、シャッターを切った。

 この日は孫の大学生の長門百音さん(20)も同行した。長門さんは「わたしたち世代も原爆の歴史を風化させないように受け継ぎ考える努力をしないといけない。じいじの背中からそう感じました」。2人はカメラを持ってほほえみ合った。

11:02

あす甲子園初戦の創成館 兵庫の練習場近くで黙禱

 夏の甲子園に出場し、10日に初戦を迎える長崎代表の創成館の野球部員は、兵庫県内の練習場近くで長崎の方向を向いて黙禱(もくとう)した。長崎県出身の岩永尚大選手(3年)は普段、学校の生徒会で平和学習の企画も担っている。「平和が当たり前だということが感じられる日だと思った。まずは1勝して全国から応援されるようになりたい」と語った。

11:02

午前11時2分、各地で黙とう 会場で公園で

 平和祈念式典で、原爆投下時刻の午前11時02分、参列者らが1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。

11:02

長崎の鐘」鳴らした田中さん 「犠牲者、安らかに眠って」

 被爆者や被爆2世らでつくる「長崎県被爆者手帳友の会」のメンバーらが長崎市の平和公園にある「長崎の鐘」を鳴らした。鐘を鳴らした被爆者の田中守治さん(83)は「原爆で亡くなった人たちが安らかに眠って欲しいとの思いで鐘を鳴らした」と話した。

 田中さんは5歳の時に親類を捜索するため、母と爆心地近くに入り、入市被爆した。「核兵器が存在する以上、いつ使われてしまうかわからない。国の指導者たちは一日も早く核兵器を廃絶してほしい」

10:45

平和祈念式典始まる 台風迫り60年ぶり屋内開催

 長崎市尾上町の出島メッセ長崎で、平和祈念式典が始まった。台風6号の接近に伴い、市は平和公園から会場を変更。各国大使や来賓、遺族らの招待を見送り、市関係者のみで実施した。式典が屋内で開催されるのは、1963年以来60年ぶり。

10:30

合唱など中止 会場には折り鶴も

 出島メッセ長崎で開かれた平和祈念式典は台風の影響で60年ぶりの屋内開催となった。来場までの安全を考慮し、来賓や一般参加者の招待を見送った。被爆者や遺族の他、小学生や高校生の参列も見送られ、例年式典で行われる小学生や高校生による合唱も中止となった。献花や献水は例年通り行われる予定。

 会場の脇には、医療施設や保育園など全国の団体から寄せられた折り鶴が並べられた。献花台には海外の駐日公使や各政党が献花した花輪が並べられた。

10:00

式典準備進む出島メッセ 「平和公園の会場イメージで」 

 台風6号の接近に伴い、屋内で開かれることになった長崎平和祈念式典。会場の「出島メッセ長崎」(長崎市尾上町)では式典の準備が進められていた。

 会場の中央には、通常の屋外会場と同様に、原爆犠牲者を慰霊する碑が置かれた。碑を挟むように設けられたスクリーンには、平和公園にある平和祈念像の写真が映し出されていた。長崎市の担当者は「なるべく平和公園の会場のイメージと近づけようと設営しました」と話す。

09:10

「イベントで終わらせない」 爆心地公園を訪れた被爆者の思い

 小雨が降る中、長崎市松山町の爆心地公園には朝から、原爆犠牲者に祈りを捧げる人々が訪れていた。公園には、原爆死没者名簿が納められている。

 日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)の和田征子事務局次長(79)も9日朝、原爆落下中心地碑を訪れた。「訳も分からず亡くなった人、今も苦しんでいる人を思うと涙が出る」。自身も1歳の時、爆心地から2・9キロで被爆した。

 式典は縮小開催となったが、この日を「犠牲者を思い、被爆者の声を伝える日にしたい」と話す。「イベントで終わってほしくない。私たちは一年中被爆者ですから」

08:00

「平和への誓い」 今年の読み上げは工藤武子さん

 今年の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げるのは、熊本市の工藤武子さん(85)。熊本県内で工藤さんと共に活動する被爆2世らも長崎入りしていたが、台風の接近に伴って、式典開始を待たずに熊本に帰る。

 熊本県で高校生平和大使を務める島村理彩さん(16)は、工藤さんの誓いを式典会場で聞く予定だった。原爆投下時刻の午前11時2分は移動中だが、「普段熊本での平和への関心の低さを感じているからこそ、どの場所にいても追悼の時間を過ごしたい」。熊本被爆二世・三世の会の青木栄会長(62)も誓いを楽しみにしていたが、自宅に帰ってからテレビで見る。「式典が中止になるかもしれないと心配していたが、屋内でも実施できてよかった。工藤さんの誓いは、若者へのエールにもなる」と話した。

07:30

高校生50人が平和訴える「人間の鎖」 台風下、今年は室内で

 長崎市大黒町の自治労会館には9日朝、長崎県内外の高校生約50人が集まり、手をつないで「人間の鎖」をつくった。原爆犠牲者への鎮魂と、平和な未来をつくる決意を示している。例年は100人超が集まって原爆落下中心地碑を囲んで鎖をつくるが、今年は台風接近の影響で断念した。

 生徒らは日頃、核廃絶を訴える署名を集める「高校生1万人署名活動」などに取り組んでいる。長崎市の塚根みづなさん(17)は「この日を爆心地公園で迎えられないのは悔しいが、広島や長崎以外の仲間と集まれたことに意味がある。これからも、被爆者の思いや事実を知ってもらうためにアピールを続けていきたい」と話した。

07:30

在外被爆者、アリランで悼む

 爆心地公園のそばにある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で早朝集会があり、朝鮮半島から渡り長崎で犠牲となった在外被爆者を支援してきた市民や在日朝鮮人らが悼んだ。

 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が1979年から開いている。朝鮮の伝統芸能や文化を伝える「福岡朝鮮歌舞団」の3人が福岡県から駆けつけ、「アリラン」や「故郷の春」など3曲を歌い、踊った。歌手の徐美香(ソミヒャン)さんは「アリランは北、南、在日に関係なく民族を象徴する魂のような民謡。ここに眠る方々の悔しさを私たちが受け継ぐ決意を込めて歌いました」と話した。

06:00

浦上天主堂でミサ 家族失った信徒「戦争やっちゃいけない」

 爆心地から約500メートルにある長崎市の浦上天主堂で、原爆の犠牲者を追悼するミサが開かれた。1925年に完成し、「東洋一の大聖堂」とうたわれた浦上天主堂は原爆により全壊、信徒8500人が犠牲になったという。台風6号による強風が吹く中、天主堂内では白いベールをかぶった信徒らが平和への祈りを捧げた。

 あの日、16歳だった田川清さん(94)は原爆で両親ときょうだい5人の家族全員を亡くした。愛媛県の航空隊で訓練中だった田川さんは「新型爆弾が使われた」と聞き、爆心地近くの自宅へ。「自分の家も家族も何も残ってなくて一人になってしまった」。焼け跡をぼうぜんと見たことを覚えているという。

 その後、結婚して子や孫に恵まれたが、原爆のことは話さなかった。「どこかで生きているかもしれないと思って。思い出したくなかったんですね」。語るようになったのは80歳を過ぎてからだ。

 今は大阪府に住み、この日は、孫の山田哲嗣さん(44)の付き添いで数年ぶりにミサに訪れた。田川さんは「戦争はやっちゃいけないです。何もかもなくなります」と語った。

■■■8月8日(日本時間)■■■

19:00

宗教の違い超え350人が被爆者慰霊

 宗教や宗派の違いを超えて平和を祈る原爆殉難者慰霊祭が8日夜、長崎市上野町の長崎カトリックセンターであった。当初は爆心地公園での開催を予定していたが、台風接近に伴い、急きょ会場を変更した。県内の宗教関係者でつくる県宗教者懇話会が主催し、今年で51回目。1973年から毎年8月9日の前夜に開かれている。

 仏教やキリスト教などの関係者約350人が参加し、式は午後7時に始まった。今年は原爆が開発されたロスアラモス研究所がある米ニューメキシコ州のカトリック代表や、ウクライナ正教の司祭も出席。心を一つに原爆の犠牲者を追悼した。

18:00

被爆したガラス瓶を再現して展示、開催に望みつなぐ

 爆心地近くのギャラリーで9日に開かれる予定の「祈りの花瓶展」。企画した長崎市出身の毎熊那々恵さん(33)は「せっかくだから開けたいんですけどね」と心配そうに天気予報を確認していた。

 この展示は、長崎原爆資料館にある被爆して変形したガラス瓶を3Dスキャナーで読み取り、伝統の波佐見焼で再現したもの。2017年から活動を始め、東京や香港でも展示をしてきた。爆心地から約5キロの矢の平町で被爆した芳子さん(93)を祖母に持つ毎熊さんにとっても9日は「1年で最も祈りを捧げる日」だ。今年はガラス瓶が発見された場所からわずか200メートルのギャラリーで、平和公園などを訪れた人たちに花瓶に触れてもらおうと準備を続けてきた。あいにくの予報だが「雨にも風にも負けずに、継承や祈りを続けていきたい」と話した。

 企画展は11~13日にも開かれる。午前11時~午後7時(13日は午後6時まで)。長崎市浜口町の「Tol.GALLERY」で。

17:10

原爆資料館のガイド「多くの人に伝えていかなくては」

 長崎市のボランティアガイド、福田弘子さん(77)は平和公園近くの駐車場で、大阪から来た団体客を見送った。8日は長崎原爆資料館で来訪者を案内したり紙芝居を朗読したりし、午後からは著書「長崎の鐘」などで原爆被害を訴えた医師、永井隆博士ゆかりの如己(にょこ)堂などを案内した。

 台風6号の接近で、9日に予定されていた平和祈念式典の平和公園での開催が中止となった。式典の機材が撤去された公園をみて、「ロシアによるウクライナ侵攻などで核の脅威が高まる中、核廃絶の訴えを世界に伝える機会だっただけに、とても残念です」と語った。

 「たった1発の原子爆弾でたくさんの命が奪われ、一瞬にして一生続く(放射線の)影響が出る。無関心の人もいるが、一人でも多くの人に、核兵器を二度と使ってはならないことを伝えていかなくてはいけない」

16:10

子どもたちが平和学習「ひとごとには思えなくなりました」

 台風6号の接近で時折、降雨や強い風が吹き始めた8日夕、長崎市の平和公園に、北九州市内の小中高校の児童生徒約20人らが平和学習で訪れた。

 北九州市の小倉は、広島に続く原爆投下地の第1目標だったが、1945年8月9日朝の小倉上空は視界が悪く、原爆を積んだB29が予備の目標だった長崎に転戦した、という経緯がある。同市高校1年生の珠久カエラさん(15)は「もしかしたら、私の街にも原爆が落ちていたかもしれず、わたしは生まれていなかったかもしれません。ひとごとには思えなくなりました」。友人とも平和について話したい、と思うようになったという。

15:00

被爆者で医師の朝長万左男さんが講義

 被爆者団体の一つ、「長崎県被爆者手帳友の会」事務所で、「ヒバクシャと語ろう」と題した催しが開かれた。最初に、被爆者で医師の朝長万左男さん(80)が、集まった10人ほどを前に、放射線が人体に与える影響について解説。「原爆放射線は被爆者を生涯にわたって苦しめる」と話し、「放射線のことを学んで、自分なりに原爆の恐ろしさを理解することが、今後、自分の身を守ることにつながる」と訴えた。

 講義の後、被爆者の三田村静子さん(81)が紙芝居で、小学校1年生のときに長崎で被爆した菅原耐子さんの体験を紹介した。三田村さんは「子どものころから平和教育をしていくことが大切。子どもにも伝わりやすい紙芝居を通じて平和の大切さを伝え続けたい」と話した。

14:30

爆心地公園で追悼する人々「核兵器は絶対ダメ」

 原爆死没者名簿が納められて…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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