あのとき日本は沖縄にどう向き合ったか なぜ沖縄の住民が犠牲に?

現場へ! 沖縄で安保を考える①

 那覇の観光地、首里城から少し離れた雑木林のなかに、旧日本軍の第32軍司令部壕(ごう)の第5坑口があった。

 入り口の看板から、石ころだらけの急な斜面を降りていく。第5坑口の周囲は草木で覆われ、近くには細い小川が流れていた。まだ4月だというのに周囲は湿気に包まれ、蚊が飛び回っていた。

 1945年5月末、ここにも米軍の砲弾が降り注いでいた。牛島満司令官ら首脳部は司令部を放棄し、夜を待って第5坑口から出ると、南部の摩文仁(まぶに、沖縄県糸満市)に向かった。

 日本は戦況が悪化した43年9月、絶対国防圏を設定。沖縄方面にも陸軍部隊を置くため、44年3月、沖縄や奄美、先島諸島などを担当する第32軍が編成された。45年6月23日までには旧日本軍の組織的な戦闘が終わり、牛島司令官は自決した。

 牛島司令官が第5坑口から出て自決までの1カ月足らずの間に、沖縄戦の民間犠牲者9万4千人の半数以上が「鉄の暴風」によって亡くなったとされる。

 多数の犠牲を出した背景には何があるのか。

 那覇市はホームページでこう指摘する。〈沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄の住民も思っていた。ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に首里から南部への撤退が決定される。多くの住民が避難していた所にただ戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用したため住民は砲弾のなかに追い出されることとなった〉

 32軍司令部の南部撤退がなければ、民間人の犠牲者は、もっと少なくなっていた。自衛隊でも沖縄戦の研究をする際、「首里で最後まで戦うべきだった」という意見が出るという。

 ただ、犠牲者が増えたのには、南部への撤退以外にも原因はあったようだ。

 政府は44年7月7日の閣議…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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