佐々成政、命がけの「さらさら越え」どの道をたどった?

 歴史好きにはよく知られている「さらさら越え」。越中(現在の富山県)の領主だった佐々成政(さっさなりまさ)(?~1588)が浜松城の徳川家康に会うため、厳冬期に敢行した山越えのことだ。実は、ルートについては諸説ある。この歴史ロマンあふれる道を記者がたどってみた。

 天正12(1584)年、厳冬期の立山連峰を土地の猟師らに先導され、黙々と歩き続ける武者たちの行列。深い雪の中、一行の多くは凍傷にかかり、一人、また一人と脱落していく。

 「さらさら越え」の一場面だ。江戸時代には浮世絵に描かれるほど有名な逸話となった。呼び名の理由については、道中の峠名からとった「佐々のザラ峠越え」が転化したとも言われている。

 山が雪で閉ざされる前の9月下旬、そのザラ峠を目指した。富山駅から富山地方鉄道で立山駅まで1時間。そこからケーブルカーで美女平へ行き、さらにバスに乗り換えて50分ほどで標高2450メートルの室堂ターミナルに着く。

 外に出ると深い霧だ。ためらったものの、思い切って踏み出した。室堂から浄土山、獅子岳をへてザラ峠に至る約4時間の道である。

 獅子岳を過ぎる頃から雨脚が強まり3メートル先も見えなくなった。起伏のある登山道を100メートル以上も下り、また上り――を繰り返す。岩から岩へ飛び移りながら進む場所も。

 目の前に鳥がひょっこり顔を出した。特別天然記念物のライチョウだ。一部白い羽になり冬支度が進んでいるようだ。「ライチョウはガス(霧)が出る日によく見られる」と聞くが、本当だった。珍しい出あいに気を取り直して進むうち、ザラ峠に着いた。

 現地には目立たない道標が1枚。獅子岳と五色ケ原を結ぶ山々のくぼみにあたるため、強い風が吹き抜ける。

 佐々成政は1584年、「小牧・長久手の戦い」で時の天下人・豊臣秀吉と対峙(たいじ)していた織田信雄(のぶかつ)(信長の息子)と徳川家康の呼びかけに応じ、その陣営に参加した。だが、まもなく信雄と家康が秀吉と和睦したため、成政は窮地に陥る。そこで家康に真意をただすべく、現在の1月にあたる旧暦12月、富山城から自ら浜松へと旅立った。

 当時から猛将の呼び名も高かっ…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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