北海道胆振東部地震、1年後の町を歩いた。「自然の営みを、時間の積み重ねを受け入れるしかない」(ハフポスト日本版)

9月6日の午前3時8分、北海道胆振(いぶり)東部地震から1年を迎えた。 

北海道の南西部に位置する胆振地方を、マグニチュード6.7の地震が襲った。大規模な土砂崩れが広域に発生し、震災関連死を含めて44人の命が奪われた。

最も揺れの大きかった厚真町は、震度7を記録した。山林土砂災害は未曾有の3200ha。その規模は山林被害が過去最大と言われていた中越地震(2004年)の3倍にも及ぶ。

4600人の町で、37人の町民が亡くなった。

町の南側にあり、北海道の電力の半分を供給する苫東厚真発電所も緊急停止した。それにより、連鎖的に道内の火力発電所が停止。道内全域にわたる大規模停電(ブラックアウト)が発生した。

1年経った被災地を、町の職員とまわった。

土砂は時速50km、約6秒ですべてを飲み込んだ

「町民全員が被災者でした」

こう語るのは、町職員の宮久史さん(39)だ。「町長の言葉を借りたのですが」と加えながら、集落のほとんどが土砂に飲み込まれた吉野地区を歩く。

町役場から約4km。車で10分ほど行くと、地図上は真っ直ぐなはずの道路がところどころ曲がりくねっている。

「復旧のための、仮設道路なんです」と宮さんが説明する。

かつては、山に面して直線に引かれた道道235号線と山の間にいくつかの家があった。

道すがら通った道で「残ったのはこの1軒だけでした」と言われた。

13世帯34人が暮らす小さな集落は「教育発祥の地」と呼ばれ、町内で初めて小学校ができた場所だったという。

剥げた山肌のすぐ下には、重機が置かれ、時間が経った今もその周りにはがれきが残っていた。本来の道路は、がれきの向こう側にあったという。この場所で、下は16歳から、上は81歳までの住民19人が亡くなった。

土砂は揺れを感じてからわずか6秒で、80~100m先まで移動したという。

時速50kmで襲ってくる土の塊は、家を土台からはがして流す。「だるま落としのような構造」と言われるため、生き延びた人は2階部分で寝ていた人が多かった。

「経験した中で、一度も土砂崩れの無かった場所だった。急傾斜地ではあったが、まさかこんなに崩れるとは、と」

山林の専門家でもある宮さんは「9000年前の火山灰が地層に厚く積もっている。地震の前に雨が続き、例年の1.5倍ほどの降雨量だった。火山灰の層に水分が多く含まれ、そこに震度7が来たことで土砂がずれたのだと考えられています」と説明した。

そして現場を見渡すと「いま治山工事をしていますが、ここには家は建ちません。いまの世代はそう選択するが、100年後の人がどう選択するかは分からない」と話した。

厚真町では、同じ規模か少し小さい地震が4000年前に起きていたことが、埋蔵文化財の調査で分かっている。

「4000年に1度、もしくはそれよりもっと長いスパンで起きるか起きないかの地震を経験している。三陸の津波のように『津波がここまで来る』という過去の経験を伝えていく努力はできるが、ここでは無理だった」

手を合わせ、目を開けると大きなダンプカーが1台通った。「土日はあまり通らないんですが、平日は工事用のトラックがたくさんこの辺りを走っています」


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Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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