半世紀前、たった3冊から始まったパンダ飼育 上野動物園140年

 初対面は、全く予想外のものだった。約14平方メートルの部屋の中で、黒と白の巨体2頭が動いていた。1頭は落ち着きなくソワソワ、もう1頭は水をグビグビ飲んで動じる様子もなかった。

 1972年10月28日午後9時ごろの上野動物園東京都台東区)。当時、32歳だった獣医師の田邉興記さん(81)は、初めて日本にやってきたジャイアントパンダと向き合い、おののいた。「抱っこして、よしよしできると思っていたのに……」。そわそわしていたのはカンカン(オス・2歳)で体重55キロ。ランラン(メス・4歳)は同88キロ。とても、抱えられる大きさではなかった。

 この出会いからさかのぼること約1カ月前。日本に突如、パンダのニュースが席巻した。9月29日、北京。田中角栄首相と周恩来首相が日中国交正常化の共同声明に調印。交渉に同行した二階堂進官房長官はその後の記者会見でこう発表した。「国交正常化を記念し、パンダのオス、メスが贈られることになりました」

 「早くも争奪戦」。9月29日付の朝日新聞夕刊はこの見出しで報じている。発表では、パンダがどの動物園に来るのかは明らかにならなかった。記事では、大阪市が名乗りを上げたとも伝えている。

 上野と正式に決まったのは、会見から数日後のことだ。ただ、理由ははっきりしない。82年発行の「上野動物園百年史」にも記載はなく、動物園に聞いても「分からない」という。

上野動物園が20日、開園140年を迎えました。今年10月にはジャイアントパンダのカンカン、ランランがやってきてから50年になります。二つの節目を迎える日本で最初の動物園の歩みを、園にまつわる資料や書籍、当時の飼育係や獣医師らの証言でたどります。

 国内139カ所の施設が加盟する日本動物園水族館協会の成島悦雄専務理事(72)は「当時の官房長官に聞かないと本当のところは分からない」と前置きした上で、上野動物園の成り立ちに着目する。「開園当時は国の所管で、上野は国立動物園のような存在だった。国賓のパンダを大事にするというメッセージを込めたのではないか」

開園は140年前 わずか1ヘクタールで

 上野動物園が「開園」したのは、今から140年前の1882年3月20日。同日にオープンした博物館(現在の東京国立博物館)の付属施設だった。上野動物園百年史によると、博物館は、オーストリア・ウィーンでの万博に出品される国内の物産を展示するために造られた。その展示品の中にワシやトビなどの動物もいて、広く観覧されたのが動物園の始まりだという。当時の敷地は、現在の上野動物園の東園の一部。約1ヘクタールの広さだった。

 クマや水牛、鳥などのほか、半年後には、オオサンショウウオやキンギョがいる「観魚室」、国内初の水族館ができた。この年の入園者数は20万5454人。当時の東京都の人口は約115万人だった。

 上野には開園後、海外で生息する動物が続々とやってきた。イタリアのサーカス団「チャリネ曲馬団」からもらったトラ、清国から贈られたシフゾウ、戦利品で得たラクダ。キリンやカバなども国内で見られるようになった。1923年の関東大震災で約3カ月閉園した後は、無料開園で被災者を励まし、多くの動物を失った浅草の花屋敷にゾウを譲り渡した。

 先駆的な展示にも取り組んだ。1928年、太い鉄格子のオリに入れていたホッキョクグマを、柵を設けない「無柵放養式」の展示に切りかえた。ホッキョクグマは現在も同様の方式で展示されており、北極の氷を模したように塗られた壁は当時のままだ。大勢のサルが動き回る「サル山」も32年に上野で初めて導入された方法で、修繕を繰り返しながら使い続けている。

戦争へ 猛獣処分、その理由は

 一方で、影の時代もあった。戦時中、多くの動物たちが戦意高揚に利用されたり、殺されたりした。

 37年、日中戦争が始まると…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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