双葉病院、50人はなぜ死んだ 避難の惨劇と誤報の悲劇

 静まりかえった雑木林の先にタイル張り6階建ての建物が現れた。人の気配はない。聞こえるのは身に着けた防護服が擦れる音とマスク下の自分の息づかいだけだ。

記者が歩く 東日本大震災10年
東日本大震災から間もなく10年。余震はいまも続き、13日夜にも最大震度6強の揺れが襲った。復興に向けた人々の歩みは、前に進んだのか。被災地を記者が歩き、考えました。

 私(28)が近づいているのは福島県大熊町にある「双葉病院」。あの日、そばの系列の介護老人保健施設も含め、患者や入所者436人がいた。

拡大する双葉病院の東病棟。柵の向こうの敷地には背丈ほどある草木が生い茂っていた=2021年1月23日、福島県大熊町、小手川太朗撮影

 町内に立地する東京電力福島第一原発が爆発して放射性物質が降り注ぐ中、救出活動は混乱した。全員の避難までに地震発生から5日かかり、約50人が死亡した。

 救える命だったのでは――。その後の裁判の経過をたどっても、政府の事故調査・検証委員会の報告を読んでも疑問が晴れない。改めて現場に向かった。

 350床あり、精神科を中心とした地域最大の病院だった。事故を起こした原発からは南西4・5キロ。放射線量が高く、今も立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域にある。

拡大する取材の前に防護服を身につける小手川太朗記者=2021年1月31日、福島県大熊町、峯俊一平撮影

 1月下旬。町の許可を得て病院を目指した。立ち入りを規制するバリケードの手前で貸与の防護服と線量計を受け取り、案内役の町民男性の車に同乗させてもらった。復興工事のトラックが行き来する大通りからわき道に入って約200メートル先に病院が見えた。

 わき道はアスファルトで舗装されているが、きれいなのは途中まで。病院に近づくと、路面は色あせ、ひびが入り、盛り上がった跡が残る。男性がつぶやいた。

 「この先はあと10年は人が住めねえよ」

 実際に避難指示解除の見通しはまったくたたない。

拡大する双葉病院の正門へと続く道。病院の手前で色あせたアスファルト舗装に変わり、路側帯の白線は途切れていた=2021年1月31日午前11時、福島県大熊町、小手川太朗撮影

 正門は白い鉄扉で固く閉じられ…

2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment