史上最悪の犠牲は火災から 今も解消できない「木密」に二つの壁

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石平道典 土舘聡一 矢島大輔

 「夜が刻々迫るにつれ南方の空は刻々に下方より紅色を呈す。雪白の雲の峰は、全部紅蓮(ぐれん)の雲の峰と化す。(中略)一面の火色、天をこがす焰(ほのお)と云(い)うのは此(こ)の事だと思う」

 鹿島組(鹿島建設)の役員を務めた鹿島龍蔵(1880~1954)が書き記した「天災日記」には、関東大震災に見舞われた東京の様子が事細かく描写されている。その日、東京は文字通り火の海に包まれた。

 100年前の1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災は、死者・行方不明者約10万5千人の87%に当たる約9万1千人が火災によって亡くなった。

 今の東京都墨田区にあった旧陸軍被服廠(しょう)跡地での「火災旋風」による死者約3万8千人も含まれる。当時の東京市の焼失住家は約16万6千棟に上った。

 関東大震災が、日本の災害史上最悪の犠牲を出すことになった要因は火災だった。東京では、「下町」と呼ばれる東部を中心に、密集する木造家屋が炎にのみ込まれた。

 区内の大半が焼失した墨田区(当時は本所区)には、今も当時のような家並みが残る街がある。

東京都が本格的に地震対策に乗り出したのは、1970年代以降でした。その後の施策の変遷をたどります。

 東京スカイツリーから約1キ…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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