太宰治は空襲に二度遭った 終戦後に紡いだ言葉たち

 東京都三鷹市ゆかりの作家・太宰治(1909~48)は終戦の年、二度の空襲に遭っている。一度は45年4月2日に三鷹で、もう一度は疎開先の甲府でだ。戦時中、自由な筆を奪われ、戦後も変わらぬこの国に倦(う)んだ太宰は48年、自ら命を絶つ。あの戦争から今年で75年。太宰が経験した空襲を振り返る。

 太宰は39年9月から、妻の美知子や子どもたちと三鷹で暮らした。12坪半ほどの小さな家で、今の三鷹市下連雀2丁目にあった。

 45年3月10日、東京の下町が焼け野原になった東京大空襲について、美知子は「東の空が真赤(まっか)に燃えるのを望見」したと著書「回想の太宰治」に書いている。これをきっかけに、美知子は2児を連れて甲府の実家に疎開すると決めた。3月下旬のことだ。美知子を送り、三鷹に引き返した直後の4月2日未明、太宰は空襲に遭う。自宅を訪れていた弟子と防空壕(ごう)に身を潜めた。美知子は著書で「ほとんど失神状態だったろう」と太宰の恐怖を推し量っている。同月、太宰も甲府へと疎開した。

 東京大空襲では約300機の米軍爆撃機B29が夜間、市街地に低空から焼夷(しょうい)弾を落とし、推定10万人とされる被害者が出た。B29による東京への本格的な空襲は44年11月24日に始まっている。現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所が目標とされた。スバルの前身の中島飛行機は、戦闘機「零戦」の部品などを手がける国内有数の軍事企業だったからだ。

 太宰が三鷹に転居した39年に…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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