武装闘争、逃走…そしてあさま山荘へ 攻防219時間、テレビ中継

 過激派グループ「連合赤軍」による「あさま山荘事件」は50年前の1972年2月19日に起き、28日までの10日間に及んだ。

 2月19日午後3時半ごろ、連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町の保養施設「あさま山荘」に侵入し、管理人の妻(当時31)を人質に立てこもった。警察は1500人以上の態勢で建物を包囲。グループは警察部隊にライフル銃や猟銃、拳銃を乱射し、手製爆弾も使った。

 警察は28日午前10時から強行作戦を開始。クレーン車につった鉄球で壁を破壊し、放水などを繰り返す中、機動隊員が建物に突入した。激しい攻防の末、発生から219時間となる同日午後6時20分ごろ、3階で人質を救出、5人を逮捕した。

 28日の攻防中、警視庁第2機動隊隊長の内田尚孝警視=警視長に特進(当時47)=と同庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部=警視正に特進(当時42)=が銃弾を受け、殉職した。22日には現場を訪れた民間人の男性も撃たれ、後に死亡。警察官ら27人がけがをした。グループは28日だけで100発以上、10日間では200発以上を発砲したという。

 事件の模様は全国にテレビ中継され、多くの国民が茶の間で見守った。

 グループの5人は、首謀者とされる坂口弘死刑囚(75)と坂東国男容疑者(75)=国際手配中=、吉野雅邦受刑者(73)に加え、当時19歳だった加藤倫教さん(69)=懲役13年、出所=と16歳だった弟。

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 銃や爆弾を使った武装闘争の末に警察に追われ、群馬県から逃走する途中に起こしたのがあさま山荘事件だった。

 事件後の取り調べで、あさま山荘事件前の71年8月から72年2月にかけ、仲間の大量リンチ殺人があったことが判明。群馬県の山中の山小屋のアジト「山岳ベース」で12人、千葉県で2人の遺体が見つかった。「革命への熱意が足りない」などと責め、「総括」と称し、暴行やアイスピックで刺すなどして死亡させ、土中に埋めていた。

 また、グループのメンバーは連合赤軍結成前の71年2月に栃木県真岡市の銃砲店を襲撃し、散弾銃10丁や2千発以上の実弾などを奪うなどしていた。

 坂口死刑囚はこれらの事件で死刑が確定。再審請求も棄却された。

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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