母と弟の遺体、突然掘り返された 怒った父の「遺言」

 第2次世界大戦末期、米軍によって大阪中心部が焼き尽くされた第1次大阪大空襲から13日で76年。当時の大阪府警察局の報告書によると、3987人が死亡し678人が行方不明になった。だが、国は追跡調査をせず、どこでだれが亡くなったのか今も不明確だ。かけがえのない人の生と死に迫り、記録に残してきたのは遺族らの奮闘だった。(武田肇)

空襲1945 戦火の記憶
日本が焦土と化した空襲のビジュアル特集です。米軍の無差別爆撃が最も激しくなった1945年を中心に、戦中・戦後の写真群からよみがえる惨禍の記憶を伝えます。

炎の街、母・祖父とはぐれ

 「今年も来ましたよ」

 大阪府豊中市の近藤豊子さん(88)は13日、大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)の中庭に立ち、大阪大空襲の犠牲者を悼むモニュメントの銘板に記された母芳江さんと祖父徳太郎さんの名前をそっとなで、涙を流した。「お骨もなければ、どこで死んだかもわからない。ここがお墓だと思っています」

 グアムなどから飛来したB29爆撃機274機が焼夷(しょうい)弾を大阪に投下した3月13日深夜。国民学校6年だった近藤さんは西区北堀江の自宅で祖父母と両親、きょうだいの計9人で眠りについていた。翌日は卒業式の予定だった。

 母に水でぬらした防空ずきんを…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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