水戸学はなぜブームになったのか 昭和初期から総力戦の時代に

 茨城県大洗町の日蓮宗護国寺。すぐ隣に明治天皇側近の元宮内相、田中光顕(みつあき)が1929年に創立した「常陽明治記念館」(現・大洗町幕末と明治の博物館)がある。

 館内では、等身大の明治天皇像と下賜(かし)品、志士ゆかりの書画や、幕末から明治に至る社会の流れが解説されている。

 「勤王水戸は私の心の祖国であった」。学芸員によると、そう語っていたという田中は土佐勤王党の出身。「聖徳を目の当たりに拝し、かつ、維新志士の高風に接する道を開いたならば、国民精神作興の上に偉大なる影響を与えるだろう」と設立趣旨を述べたと伝えられる。

 敷地には田中が影響を受けたという水戸学者、藤田東湖の銅像。「皇紀2600年」の翌41年、銃後の国民の思想涵養(かんよう)に役立つとして町の国民学校に建てられ、後に記念館に移された。

 国民精神の作興、涵養といった言葉が戦前期らしい。自己を犠牲にして国家のために尽くす気概を国民精神と言った。やがて総力戦へ向かう中、水戸学が大流行した時代があった。

 「水戸市史」はこう記す。

 〈昭和8年ごろから水戸学再認識の機運が盛り上がり、一種の水戸ブームが現出した。昭和恐慌による農村の疲弊や頻発するテロ行為、あるいは社会主義運動の興隆・弾圧など、この時代があたかも幕末期を思わせる世情不安定な状態にあったこととも関連する。この危機的状況を水戸学の精神で打開しようという主張が強まり、水戸学に関心をよせる者も多くなった〉

 維新の精神的な先駆けとなりながら、明治になって影響力を失った旧水戸藩。昭和になって出現した水戸学顕彰のさなか、場外戦とも言える神社界の紛争が地元水戸で起きた。

 きっかけは、江戸時代に栄華…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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