破綻した米国中心の秩序 侵略が映すロシアの精神的風土 佐伯啓思氏

異論のススメ・スペシャル

 もう10年ほど前になるが、大学院の授業後にひとりの留学生がやってきて、こういう。「日本はどうして英語教育の充実など英語ばかりに熱心なのですか。自国の言葉だけで話が通じるというのはすばらしいことではないですか。なぜ、日本は自分たちの言葉や文化をもっと大事にしないのですか」

さえき・けいし

1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「死にかた論」など。思想誌「ひらく」の監修も務める。

 少し返事に窮した。まったくその通りだと思う。そこで、君はどこから来たのかと聞くと、ウクライナからだ、という。いかにウクライナがロシアの脅威にさらされ、自国を守るために苦しんでいるかを彼は熱心に語っていた。今回のロシアのウクライナ侵略のニュースを聞いて、その時の彼のかなり切迫した表情をふと思い出した。

 戦後、もっぱら米国の軍事的安全保障のもとで平和を満喫し、それだけではなく、世界秩序や国際政治に関する見方もほとんど米国流の合理的思考に従ってきた日本にあっては、ロシアの突然の侵略はほとんど理解を超えたものにしか映らない。あえて理解しようとすれば、プーチンは狂気に陥ったとか、病気だとかいうほかない。プーチンの精神状態はともかく、ウクライナ人からすれば、いつ何時、ロシア軍が攻め込んできても不思議ではなかったのであろう。

欧州が生みだした二つの近代文明

 ところで、今からちょうど100年前の1922年、ドイツの文明史家であるシュペングラーによって「西洋の没落」第2巻が書かれた。この書物の中で、彼は、壮大な近代文明を生みだしたヨーロッパはいまや没落のさなかにある、という。ヨーロッパが生みだした近代文明の典型は、アメリカ文明とソ連社会主義であった。科学的合理性と技術に基づく経済発展を目指し、ヨーロッパ啓蒙(けいもう)の精神を受け継いで理想社会の実現を標榜(ひょうぼう)するこの二つの文明によって、ヨーロッパの「文化」は没落するとシュペングラーはいう。

 「文化」とは、ある特定の場所に根づき、時間をかけて歴史的に生育する民族の営みである。それは、アメリカ文明とソ連が掲げる普遍的な抽象的理想や歴史の最終的な目的といった観念とは相いれない。

 改めて振り返ってみれば、ナチスによってズタズタにされたヨーロッパ文化の崩壊後に出現したのが、ともに近代的な人工的文明であるアメリカとソ連の対立であった。そしてソ連は91年には消滅し、残ったのはアメリカ文明である。

 アメリカ文明は、ある独特の思考の形をとる。それは、歴史は、個人の諸権利、自由やデモクラシー、法の支配、市場競争などの普遍的価値の実現に向けて動いてゆく。またそうあるべきだ、という。さらに、その普遍価値の実現こそは米国の使命だとする。

 もちろん、現実の歴史はそれほど簡単ではない。米国のいう普遍的価値を共有しない国もあれば、敵対する国もある。その場合には、軍事力において勢力均衡をはかることで世界秩序を維持するというのが米国の方針であった。このような思想によって米国中心に成立したのが今日のグローバリズムである。

近代主義の誕生から冷戦後まで、歴史をひも解いていく佐伯啓思さん。論考の後段では、2つの近代主義の失敗によって表出してきた「精神的な風土」を手がかりに、現在の世界情勢と日本の在り方を考えます。

模索し続けていた「ロシア的なもの」

 一方、もっと複雑なのはロシ…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment