血の飛び散った教室を掃除した小2の夏 「なぜか怖くなかった」

 77年前、千葉県市原市国民学校(小学校)分校が米軍機の機銃掃射を受けた。校舎内にいた児童3人が死亡し、多くの人がケガを負った。地域の人が慰霊式を続けるなど語り継いできたが、生き残った女性が今年になって初めて体験を語った。今語らないともう伝えられなくなるという思いからだった。(重政紀元)

 惨劇の数日後にあった葬儀は雨の中だった。ぬかるむ道で見た棺はとても小さかった。「かけられた鮮やかな赤い着物がいまだに頭に焼き付いています」

 元中学美術教諭の神谷ゆきさん(84)=市原市=は7月末に同市内であった講演で、母校で77年前に起きたつらい記憶を語った。

 通っていたのは同市にあった養老国民学校(現養老小)川在分校。当時2年生になったばかりだった。複式学級の教室には、疎開者もいて30人以上の児童がいた記憶がある。

 惨劇は5月8日、お昼に弁当の準備をしていたときだった。担任の女性教員がお盆に急須などを載せて教室に入ると同時に、「ババーン、ババーン」とものすごい音が響いた。米軍機による機銃掃射だった。

赤い着物に込められたのは

 すぐに壁際に身を寄せ、校舎…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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