覆面のまま、真相公開されず…海の特攻兵器「震洋」とは 1945年の紙面(西日本新聞)

西日本新聞の紙面から【1945/10/7】

〈連合国軍がレイテ湾に上陸作戦を開始したころ、初めて羽ばたいた神風特別攻撃隊の空からの攻撃に相呼応し、猛然水上から捨て身の攻撃を敢行した水上特別攻撃隊、沖縄をめぐる戦史未曽有の激闘の夜間奇襲攻撃を続行して連合軍の心胆を寒からしめた水上特攻隊、それは過去の思い出の一つになった〉 「逆型で驚異的性能」遅すぎた新型戦闘機の完成 1945年10月4日  このころ、紙面には時折、4日付の局地戦闘機「J7(震電)」のように戦時中の兵器開発に関する「秘話」が掲載されている。2日付では長崎造船所で建造された戦艦「武蔵」も取り上げた。  海の特攻兵器「震洋」。記事は〈ついに終戦の今日まで、覆面のまま、その真相を公開されなかった海軍水上特別攻撃隊とは果たしてどんなものだったろうか〉とその経緯を詳述している。  記事によると、震洋の設計は1943年秋に完成、同年終わりごろから東京の3カ所や舞鶴、呉、長崎などで製造し、横須賀と佐世保で爆弾を装備するという生産態勢に入ったという。長崎県内の2カ所は特に重要拠点になっていた。

 〈佐世保には間もなく鮮やかな緑に塗装されたボートが陸続として(※ひっきりなしに)送られてきた。佐世保海軍工廠では、これに爆装を施すため、市内船越に特設工場を建て、精選した数百人の工員を動員して直ちに猛作業を開始し一方、特殊爆薬も廠内機密工場で昼夜の別なき生産に入った。以来終戦までに同工廠の手掛けた震洋艇は既に二千隻を突破した〉。検閲も自粛もない書きぶりは、せきを切ったように具体的だ。  記事は、船の性能を説明した後、こう続く。  〈昭和十九年秋の終わりごろから実動期に入った震洋特攻隊隊員はほとんど全部が予科練出身。二十歳前後の若桜であった。訓練は艇の完成を待ちきれぬように始められたが、ここで当面した大きな障害は燃料のガソリンがないことだった〉

 〈水上特攻隊最大の基地といわれた長崎県大村湾小串郷の部隊でさえ、ガソリン不足のため訓練できる艇は一日五隻ぐらいのものであった。特にその後、沖縄戦始まるころからは、空襲のため昼間の訓練は全く不能となった〉  訓練不足を補うため、一隻に数人が乗り込んだともある。その姿は〈飛行服に飛行帽、半長靴に白マフラーの颯爽たる若武者ぶりだった〉。  震洋のその後も記されている。  〈猛訓練を経た若武者たちは昭和十九年末から勇躍、母艦に搭載されて南方に出動、その第一回の成果がリンガエン湾頭に初めてあらわれたのである。ただしこの間、空襲のため目的地に到着せずして母艦に搭載のまま手折られた若桜も相当数に上った〉

 この記事では550キロの航続距離があったとされる震洋。〈短い足しか持たぬ震洋特別攻撃隊にとって、連合軍の本土上陸作戦開始の時こそ、その真価の見せどころであった。全九州の震洋特攻隊はいずれも弓矢が引き絞られた弦を離れる機会を狙っていた。しかるに八月十五日、聖断は下された。万事休す。矢はついに放たれぬまま地に落ちたのである〉  終戦1カ月半の筆致は、「活躍できなかった」無念であふれている。失われた無数の命の尊さにはまだ、言及できていない。 (福間慎一)    ◇    ◇  〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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