銀色のパチンコ玉、生みの親は鉄砲職人 孫が継いだ町工場のプライド

■カンサイのカイシャ ここがオモロイ!

 かつてパチンコ玉の国内シェアの大半を占めた町工場が大阪府大東市にある。パチンコ店の減少傾向にコロナ禍が追い打ちをかける中でも、新商品の開発で巻き返しを図る。そんな「町工場のプライド」の歴史を追った。

 工場を営むのは「光ナノテック」。遊技球製造協会によると、いまも全国に流通するパチンコ玉の大部分は、この社の技術で作られている。

 創業者は堺市の鉄砲職人だった故・當山(とうやま)敏雄さんだ。東大阪市で旋盤工に転身し、戦時中は機械工として徴兵された。「金属の扱いを知り尽くした人」と孫で3代目社長の敏生(としき)さん(39)は話す。

 戦時下で禁止されたパチンコが解禁されたのは1946年。軍事用のベアリング球がパチンコ玉として大量に出回り始めた。

 しかし、傷やへこみができやすく、さびにも弱い。パチンコがはやると、規定外の「ヤミ玉」も増えた。

 敏雄さんはその機を見逃さなかった。51年に大阪市内で質の高い「炭素鋼球」の製造を始め、60年代には「パチンコ玉の大革命」を起こした。

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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