JCO臨界事故から20年 元原研理事長が語る「あの日」(産経新聞)

 日本初の事故被曝(ひばく)による犠牲者を出した核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)の臨界事故から、30日で20年。不適切な作業は、2人が死亡、消防隊員や住民が被曝する重大事態を招き、放射線との戦いは現場を混乱に陥れた。日本の原子力防災体制の転換点となった事故。対応に当たった関係者は、当時の状況を鮮明に語った。(福田涼太郎)

 「東海村で臨界事故があったようだ」

 平成11年9月30日の昼前ごろ。東京都内で式典に出席していた日本原子力研究所(原研、現日本原子力研究開発機構)元理事長で、当時は東海研究所長だった斎藤伸三(しんぞう)さん(78)は職員からそう耳打ちされ、即座に席を立った。

 臨界は核分裂反応が継続して起こる状態で、人体に重い障害を引き起こす中性子が放出され続ける。「まずいな…」。現場から約5キロ離れた東海研究所に戻ったのは午後2時50分。放射線は低減の兆しを見せていない。「放射線の発生源となっている沈殿槽は、『裸の原子炉』の状態になっている」。そう確信した。

 この時点で、村は国やJCOから満足に情報を得られず、自主的に350メートル圏内の住民に避難を要請するありさまだった。

 夕方、東海研究所に国の現地対策本部が置かれた。原研は、なし崩し的に事故対応に乗り出すことになった。「現地対策本部が立ったものの、他に誰も対応できる人がいなかった」

 JCOからの説明で、問題の沈殿槽は周囲に冷却水が張り巡らされていることが判明。沈殿槽から中性子が外部に放出され続ければ臨界は自然に収束するが、冷却水の層が放出を妨げ、事態を悪化させていた。

 タンクの冷却水を抜く方策の検討に入った。現場は平常時の100倍近い放射線量。ある専門家は「自衛隊がタンクを射撃できないのか」と提案したが、弾が外れて沈殿槽内の溶液が散乱すれば危険だ。最終的に冷却水の配管を人の力で破壊する案が採用された。

 10月1日未明、ようやく作業が開始。JCO社員18人が2人1組で進め、時間は1回3分で交代した。JCO幹部や作業者は恐怖から何度か消極的になり、その都度、作業を進めるよう説得したという。午前6時すぎ、線量が急速に低下し、臨界は収束。現場では涙を流す者もいた。

 斎藤さんに対策本部員として肩書が与えられたのは数日後。それまでは対応を指揮した部外者だった。

 「原子力事故は絶対に起こしてはならない。JCOはその意識が欠落していた」

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

Japonologie:
Leave a Comment