「空襲から逃げるな火を消せ」の時代 戦争にあらがった議員の生涯

 【栃木】2時間半の空爆で10万人の命が奪われた東京大空襲の翌日だった。1945年3月11日の帝国議会。貴族院議員の大河内輝耕(きこう、1878~1955)が政府の責任をただした。

 「疎開をずっと前から主張していた。疎開する者は非国民と言い出し、ぐずぐずしているから、こういう始末になった」。同14日の秘密会議でも追及した。

 「次は東京が全部やられるかもしれぬ。人を助けるか、物を助けるか。火は消さなくてもいいから逃げろと言っていただきたい」

 空襲は怖くない。逃げるな火を消せ――。政府は国民の命よりも戦争遂行を優先した。住民同士を監視させ、避難を許さなかった。さらに日米開戦2週間前に防空法を改正し、罰則を伴う法的義務を課していた。

 この防空法制は2008年提訴の大阪空襲訴訟で問題にされた。犠牲者を増やしたのは国に責任があるとする主張を裏付けるため、原告側は大河内質問の議事録を証拠提出した。当時の資料を調べた弁護団の大前治弁護士(52)は言う。

 「他の議員は一致団結して天皇を守り戦い抜こうなどと美辞麗句しか口にしなかったのに、大河内は戦争政策の極めて重要な部分を根本から否定した。多くがおかしいと感じながら隠していた思いを正々堂々とぶつけた稀有(けう)な発言だった」

 群馬県人名大事典によると、大河内は最後の高崎藩主の長男として生まれた。大蔵参事官などを経て24年に貴族院議員になった。予算に詳しく、調査を尽くして鋭く切り込む質問で歴代政府の政策をただした。

 空襲責任の追及だけではない。37年3月、政界腐敗に言及した陸相に「軍部の内部も反省の必要がある」と迫った。43年2月、「翼賛選挙」問題では首相の東条英機と激しくやり合った。東条内閣は議会を操るため、軍部などが選考した推薦候補者に臨時軍事費を流用して支援し、非推薦候補には激しい選挙干渉や妨害を加えた。

 大河内家の歴史をたどった「大河内一族」などによると、大河内は各地で非推薦候補が圧迫を受けた例を示し、1890年代の選挙干渉以上だと追及した。東条は日米開戦以来の戦果を挙げ、「ちっぽけな問題」「選挙権は制限していない」と言い放った。

 大河内は「選挙が小問題とは何事か。(戦時の)重大な時局を背負って立つべき衆議院議員の選挙が小問題とは考えられない」と反論。「推薦候補は当局の意思のまま動いている」と批判した。貴族院会派の「研究会」は「軍政に近い政情下、質疑は驚異であった」との見解を示した。

 敗戦後の46年10月5日、憲法改正案審議で大河内は賛成の論陣を張った。大正デモクラシー運動の先頭に立った憲法学の権威・佐々木惣一が天皇主権存続の立場から反対した後だった。

 「この憲法には平和主義と民主主義が明白に現れている。もし、20年か30年も前にあれば、今日の惨禍は避けることができた」

 子爵の大河内にとって「自己否定」を意味する華族制度廃止も認めた。そして、基本的人権が侵すことのできない永久の権利と宣言する97条については、「錦上(きんじょう)花を添えた」と賛辞をおくっている。

 2012年の自民党憲法改正草案で丸ごと削除された97条は、憲法が保障する基本的人権について「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」とうたう。

 大前さんは語る。

 「踏みにじられ、傷つき、もがき苦しみながら闘った人たちの存在や思いは今に脈々と流れている。それを忘れてはならないと、大河内に気づかされた」(中村尚徳)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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