34年の歴史を閉じた水族館、33年勤めた館長に任された最後の仕事

 福岡県内陸部の川崎町。

 石炭産業の輝きが薄らいでいく筑豊のまちで、1966年に生まれた。

 炭鉱から出たボタ(捨てた石)の山を見てすごした10代。環境や生き物の関わり合いに興味がわいた。

 生態学を学ぼうと長崎大教育学部に進んだ。入ったゼミで学んだのは魚類生態学。長崎大水産学部の大学院に進み、研究を続けた。

 職に就くなら学んだことを生かしたい。

 〈水産と教育を足して2で割ると……〉

 水族館だと思った。

 インターネットがまだ一般に普及していない時代。資料に当たり、人と会い、1館ずつ情報を集めた。

 九州では勤め口が見つからなかった。東へ、東へ。

 日本中がバブルに踊っているのに、水族館で働くのは狭き門だった。

 中国地方もダメ。兵庫もダメ。次は京都。

 見つかった。

 丹後の海のほとり。1年ほど前にオープンした小さな水族館がスタッフを増やそうとしていた。

 24歳の春。

 京都府宮津市電力会社が運営する水族館の飼育員になった。

     ◇

 「当館は本日、皆さまのたくさんの笑顔と思い出を胸に閉館いたします。誠にありがとうございました」

 マイクを握る女性スタッフの震える声を、来館者の拍手が包み込んだ。

 あれから30年以上たった今年5月30日。

 ロビーで客を見送っていると、一人の女性客がすっと近づいてきた。「小さいころからずっと来てて。すごく寂しくて」。指で涙を拭う女性の目を見つめ、マスク越しに笑顔を返した。

 生き物の買いつけや運搬、餌やり、掃除、成長記録の管理……。みんなで力を合わせてやってきた。

 「一番の思い出は」と新聞記者に聞かれた。「全部です」と本当は言いたい。

 でも、あえて選ぶなら、2頭のゴマフアザラシを北海道から空路で連れてきたこと。94年12月、オープン以来初めてとなる哺乳類の飼育と展示を任された。不安と責任の重さに押しつぶされそうだった。無事に成功して本当によかった。

 17年前、水族館長に就いた。3代目で初の女性。20歳ほど上の先代館長に「お前に任す」と言われた。

 お客様がいつも新しい何かを発見できるように。そんな展示を心がけてきた。

 〈それにしても、最後は急に来たなあ〉

 5月30日を最後に閉館することを知ったのは3月下旬のことだ。

 いま、57歳。

 飼育員でいるのはおしまいだと思う。社内の別の部署で別の仕事をするのか。自分もまだ分からない。

 後輩たちの今後も気になる。幼い子を育てる飼育員もいる。できることがあるなら力を貸したい。

 「ラストがんばれ」「ラストしっかり」

 単身赴任中の2歳上の夫や20代の3人の子どもたちから、そんなメールが届いていた。

 〈いつも通りで〉

 そう自分に言い聞かせてきた特別な一日がもうすぐ終わる。

 横に並ぶスタッフたちは笑顔のまま泣いている。

 寂しい。でも、自分の仕事はまだ終わっていない。

 ここの生き物は他の水族館などに引き取ってもらう。いろんな調整を進めて、すべてを移し終えるには半年以上かかるだろう。

     ◇

 「生き物たちの行き先を決めて、きちんと送り出さないと。全部終えたら、その時はこみ上げてくるものがあるかもしれません」

 吉田史子さんは取材にやわらかな笑顔を見せた。

 近畿地方梅雨入りが発表された翌日。関西電力の火力発電所「宮津エネルギー研究所」のPR施設「丹後魚(うお)っ知館」は34年の歴史に幕を下ろした。

 水族館の来館者は延べ約605万人。最後の来館者が帰った午後4時半ごろ、西の曇り空には光が差していた。(富田祥広)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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