9割破損でも…原爆投下から3日後に再開 広電の使命感

【動画】原爆の瞬間も走った広電651号。「被爆電車」と親しまれる車両は、被爆76年を経た夏も走り続ける=遠藤真梨、小林一茂撮影

 原爆投下の広島の街を走っていた「被爆電車」。当時はどんな状況だったのか。

 1945年8月6日朝。広島電鉄では約950人の従業員が出勤し、63両の路面電車を運行していた。

 米軍の空襲が度々あり、これに備えるため、毎夜約20人の幹部や社員が広電本社の近くにある宿舎に詰めていた。前日の5日、市内では警戒警報が何度か発令された。だが、非常事態には至らず、翌6日午前7時過ぎの警報も20分余りで解除された。

 食堂棟の中庭では朝会後、事務系や技術系の職員ら約50人がシャツ姿でラジオ体操。戦時とはいえ、普段の光景が広がっていた。

 そうしたなかでの8時15分――。

 「本社事務所で強烈な閃光(せんこう)と同時に叫喚の声があがった」

 「吹き飛ぶ屋根・窓・扉、あるいは崩れ落ちる壁などの轟音(ごうおん)にその声もかき消されてしまった」

 「数分間は全くの暗黒と化した」

 いずれも広島市広島原爆戦災誌に残された記述だ。

 体操していた職員の多くが負…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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