子の誕生日にメール 存在確かめるよう…親たちの10年

 これほど穏やかな青空の3月11日はめずらしい。  午後3時、宮城県石巻市を流れる北上川の川べり。青木恭子さん(62)は、3メートルほどに育った桜の木をなでて、つぼみのついた枝を見上げた。  息子の謙治さん(当時31)は10年前のこの時刻、ぎりぎりまでここで避難誘導にあたったはずだ。2年ほど前に桜を植え、名前を刻んだ石板を置いた。  私(57)が青木さんの取材を、3月のこの日にするのは初めてだった。  私が「手を合わせないんですね」と言うと、「息子が確かに生きていた場所だから」と。遺体が見つかった沼に寄って花を置き、帰途についた。  青木さんには同じ境遇の仲間か… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

陛下のおことば、上皇さまより「かなり分量多い」理由は

 11日に開かれた東日本大震災の10年追悼式。天皇陛下が述べた「おことば」について、名古屋大の河西秀哉准教授は「平成を踏襲しつつも、『皇后とともに、今後も被災地に寄り添っていく』という、令和の天皇の決意表明のように感じる」と話す。  震災5年の追悼式で、上皇さまが述べたおことばと比較して、河西さんは「かなり全体の分量が多い」と指摘。その理由として、コロナ禍で行幸啓や被災地訪問ができず、国民とふれあう機会が持てていないことから、「伝えたいことや考えをしっかり詰め込んだのでは」とみる。  河西さんによると、今回のおことばの冒頭は、5年前の上皇さまのおことばを継承している表現が目立ったが、①2度にわたって登場する「皇后と共に」②「震災は過去のことでなく現在も続いている」③「歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生している」――の三つが天皇陛下らしいフレーズだと感じたという。  河西准教授は「皇后とともに、というのは即位の時から貫いている姿勢。そのほか、歴史や記録についての言及や、被災地に心を寄せ続けることは、これまでの会見や発言でも触れている。今回のおことばは、今の天皇の考え方が凝縮されているとも言えるものだ」と話す。(聞き手 杉浦達朗) Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

へずまりゅうと共に業務妨害 ユーチューバーに有罪判決

 大阪・ミナミの洋服店でいいがかりをつけたとして威力業務妨害罪に問われたユーチューバー吉本航(わたる)被告(32)に、大阪地裁(宮崎桃子裁判官)は11日、懲役8カ月執行猶予3年(求刑懲役8カ月)を言い渡した。  吉本被告は「わたきん」と名乗って活動。判決によると、昨年5月、「へずまりゅう」と名乗るユーチューバー原田将大(しょうた)被告(29)=同罪などで起訴=と共謀し、大阪市中央区の店で動画を撮影しながら買ったTシャツが偽ブランド品だとするうそに基づいて返品を要求し、業務を妨害した。  判決は、「動画の視聴者の興味をひくようなトラブルを期待してあえて因縁をつけた」と指摘。一方、犯行を認めて反省しているとして執行猶予をつけた。(米田優人) Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

Dix ans après Fukushima : « L’accident a rendu le nucléaire plus cher »

Par Nabil Wakim Publié le 11 mars 2021 à 14h00 Réservé à nos abonnés EntretienAprès…

「もう一度抱きしめたい」津波に消えた娘、捜索いまも

 東京電力福島第一原発から約4キロ離れた小高い丘の上に、小さな石碑がある。 福島県大熊町の木村紀夫さん(55)が2013年夏、津波で亡くなった家族のために自宅裏の丘に作った。「ずっとあなたたちと共に」との文字が刻まれ、隣には可愛らしいお地蔵様。たくさんのお菓子と花に囲まれている。 特集企画「会いたい、会わせたい」東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。 特集企画「生きる、未来へ」3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。  1月上旬、木村さんは石碑の前にしゃがみ込むと、献花用の水を替え、両手を合わせ、目を閉じた。後ろから飼い犬のドーベルマンの「ベル」が体をなすりつけてくる。  「わかった、わかった」。木村さんは苦笑いしながら、「じゃあ、捜しに行こうか」とベルの頭をなでた。 拡大する自宅の裏の小さな丘の上に立つ木村紀夫さん。震災後、自宅跡には木村さんが作業小屋や花壇などを作った=2020年11月10日、福島県大熊町、三浦英之撮影  震災前、木村さんの自宅は砂浜から約100メートル離れた、海面より少し高い農地の脇にあった。両親と妻、娘2人の2世帯で暮らしていた。  11年3月11日、木村さんは隣の富岡町の養豚場で働いていた。大きな揺れの後、大熊町へ戻ると、自宅は跡形もなく流されていた。避難所になっていた町の体育館に向かうと、母の巴(ともえ)さん(82)と長女の舞雪(まゆ)さん(20)がいた。一方、父の王太朗(わたろう)さん(当時77)と妻の深雪(みゆき)さん(同37)、次女の汐凪(ゆうな)さん(同7)が行方不明になっていた。  午後5時ごろ、自宅周辺の捜索に向かった。  「汐凪ー、深雪ー」「いたら声を上げてくれー」  夕闇に向かって大声で叫ぶが、返事がない。  午後7時ごろ、自宅裏の丘からベルが砂だらけで飛び出してきた。普段とは違って、リードを付けている。嫌な予感が脳裏をよぎった。「地震後、誰かが自宅に戻り、ベルを外に連れ出して逃げようとしたんじゃないか。そのときに津波にのみ込まれたんじゃ……」  夜を徹して捜したが、結局3人は見つからなかった。翌朝、原発が危機的状況に陥った。木村さんは巴さんや舞雪さんと一緒に大熊町からの避難を強いられた。  1週間後、木村さんは避難していた妻の実家の岡山県から、3人を捜索しようと大熊町に戻ろうとした。しかし、原発の約30キロ手前の道で警備員に止められ、町に近づくことさえできなかった。行方不明になっている3人の写真と自分の携帯番号を記したチラシを作り、避難所などに配って回った。 拡大する木村紀夫さんが避難所の掲示板に貼ったポスター=2011年3月27日、福島県須賀川市の須賀川アリーナ、下地毅撮影(画像を一部加工しています)…

31歳の「定年」拒否した私 悔しさ、苦しさ、まだまだ

 「ちょうど一年前、(中略)三十一歳になった私に定年退職の辞令が出ました」。1971年4月18日の朝日新聞朝刊の連載「男と女」は、こんな言葉で始まる。辞令を受け取った盛岡市の大沢栄子さん(81)は当時を振り返って笑う。「職場でこんな差別があったなんて、いまの人には信じられないでしょ」  「結婚(寿)退職」、「妊娠退職」、「男女別定年」。いまであれば、男女雇用機会均等法で禁止されている女性差別が、労働現場で残っていた。  そんな状況を変えようと、1960年代以降、差別撤廃を求めて、女性たちが次々と立ち上がった。労働組合などの支援を得ながら、裁判を起こした。66年末には、結婚退職制をめぐり、「結婚の自由を制約するもので、公の秩序に反する」として、違憲とする初の判決が出た。  大沢さんの闘いもこの時代と重なる。大沢さんは61年、岩手県経済連(現JA全農いわて)で臨時職員として働き始め、翌年に結婚。「生活していくために共働きは当たり前だと思っていた」  65年にできた制度で准職員となったが、次第に男女差別が目につくようになる。同じ仕事をしているのに、隣の正職員はボーナスをもらい、諸手当もでた。准職員は職種により定年があり、大沢さんら女性がつく事務職の定年は31歳と定められていた。 ジェンダーをめぐる状況は何が変わり、何が変わらずにきたのでしょうか。50年前の新聞と、今とを行き来しながら考える連載です。  70年4月、31歳の誕生日の… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル

「八ツ橋」の創業年訴訟、聖護院が勝訴 井筒は上告へ

 京都銘菓「八ッ橋」の老舗大手「井筒八ッ橋本舗」がライバル社の「聖護院八ッ橋総本店」に、創業を元禄2(1689)年とする表示の使用禁止や600万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が11日、大阪高裁であった。山田陽三裁判長は、訴えを退けた一審・京都地裁判決を支持し、井筒側の控訴を棄却した。井筒側は上告する方針。  聖護院は、のれんや看板に「創業元禄二年」「since1689」と表示。井筒側が、創業年などに正確な根拠がなく、不正競争防止法が禁じる商品の優位性などを誤認させる表示にあたると訴えていた。  高裁判決は、誤認表示の対象になるのは、客観的に真偽の検証や確定が可能な事実だと示した。その上で聖護院の表示は「300年以上前のことで明確な文献などがない言い伝えによるもの」とし、誤認表示にあたらないと結論づけた。  判決を受けて井筒側は「最高裁で不正競争防止法の適正な適用を求める」、聖護院側は「主張が全面的に受け入れられた」などとコメントを発表した。(遠藤隆史) Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

着心地良く「エレガントに美しく」 マメ・クロゴウチ

 日本ブランドのマメ・クロゴウチが2021年秋冬コレクションを映像で発表した。夜、窓からの月明かりが室内に作る様々な影から着想を得た。夜が訪れる直前の夕日のオレンジと、影や月明かりを思わせるグレーを象徴的に使った。  服には直線状の影を表すストライプ柄が多用されている。ドレスやブラウスは、伝統的な「板締め絞り」で染色。直線のストライプに見えるが、線はにじんで揺らいでいる。室内に走る影が、ソファやベッドなどの上では線がゆがんでいる様子を表したのだという。プリーツが大胆にカーブを描くトップスやスカートもある。  特に目をひくのが、インクを落としたようなサイケデリックなドレスやトップスだ。デジタルプリントのようにも見えるが、京都の工場による「マーブルプリント」の職人技だという。  また、アトリエの庭で見たキンモクセイの小花をブラウスやドレスに落とし込み、日常の美をとり入れた。腰に巻くスカートバッグやトレッキングブーツなど、今季はアクティブな印象のスタイルも。デザイナーの黒河内真衣子は、コロナ下で「動きやすいスポーツテイストは今の自分の気分に近い。ただ、着心地が良くてもエレガントさや美しさは大事な要素。マメらしさから離れないように、凜(りん)とした美しさを意識した。服を着る機会は減っているかもしれないが、ベーシックなものだけでなくファッションを楽しんでほしい」と話した。(神宮桃子) Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

【震災10年の一日】14時46分、列島に広がった祈り

 死者・行方不明者、震災関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年。復興事業を中心とした第1期の「復興・創生期間」を経て、今後は心のケアなどに取り組む第2期に移ります。昨年はコロナ禍で中止された政府主催の追悼式が2年ぶりに開かれ、発生時刻に合わせて全国で祈りがささげられました。各地の一日の動きをタイムラインで振り返ります。 特集企画「生きる、未来へ」3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 16:40「日米両国はこれからも『トモダチ』」  東日本大震災の発生から10年になるのに合わせ、菅義偉首相とバイデン米大統領は共同メッセージを出した。加藤勝信官房長官が11日午後の記者会見で発表した。  犠牲者への哀悼の意や被災者へのお見舞いのほか、震災後に日米両国が行った支援活動や自衛隊と米軍の連携を強調。当時のオバマ政権で副大統領だったバイデン氏が震災発生から5カ月後に宮城県名取市や仙台市を訪れたことに触れ、「日本国民の驚くべき粘り強さを目の当たりにした」とした。また、米軍の救援活動「トモダチ作戦」を念頭に、「日米両国はこれからも『トモダチ』として、手を携えて前進していく」と結んだ。  加藤氏によると、共同メッセージは、バイデン氏の就任後に初めて行った1月の電話協議で、首相が「被災者の方々を勇気づけるメッセージを2人で出そう」と提案したという。加藤氏は「日米両国が東北地方の復興、よりよい未来の実現のため、手を携えて前進していくとの両首脳の決意が込められている」と語った。 15:38終着点なき心の復興  岩手県大槌町が主催する追悼式で、遺族を代表して倉堀康さん(37)が追悼の辞を述べた。両親や兄ら親族6人を亡くし絶望感でいっぱいになったが、「地域の方やボランティアの方に支えてもらい、新しい出会いができた」。仮設住宅ではコミュニティーづくりに参加、有意義な時間を過ごしたと言う。「ハード面の復興はほぼ終わったが、終着点のない心の復興には、まだまだ時間が必要だと思います」 拡大する遺族代表で追悼の辞を述べる倉堀康さん=2021年3月11日午後3時38分、岩手県の大槌町役場、東野真和撮影  大槌学園8年の菊池康介さん(14)は児童・生徒を代表して追悼の辞を述べた。明治、昭和の災害の石碑が各地域にあることを授業で知り、「学園が『生きた石碑』としての役割を担い、被災した私たちが、震災を経験していない子に伝えていきたい」と話した。 15:35仙台で追悼式、遺族ら256人参加  仙台市の追悼式が、同市宮城野区の宮城野体育館で開かれ、遺族ら256人が参列した。昨年は新型コロナの影響で中止され、追悼式の開催は2年ぶり。  農家の佐藤稔さん(71)は津波で長女優子さんを失い、町内会長を務めていた三本塚地区(同市若林区)では12人が亡くなった。遺族代表として言葉を述べ、犠牲者に「住む世界は違っても、私たちの心の中に生き続ける。良き日もあしき日も、ともに前へ進んでいきましょう」と呼びかけた。  郡和子市長は、式辞で「今後も一人一人に寄り添った心のケアを続けていく」と話した。 15:30語り部「自分事としてとらえて」…

「忘れた日はない」10年間、亡き妻子に告げ続ける数字

 11日午前6時半、宮城県東松島市の菅原節郎さん(70)は、仏壇の横に飾られた妻と息子の写真に語りかけた。「きょうで3654日。11年目を迎えたよ」。2人のことを忘れた日はない。そう伝えたくて、この10年間、震災からの日数を毎日、告げている。  あの日、強い揺れのあと、家にいた妻の郁子さん(当時53)と長男の諒(りょう)さん(当時27)に、足が不自由な近所のおばあちゃんを連れて逃げるよう頼んだ。市議だった自分は、他に逃げ遅れた人がいないか、車で見守りへと向かった。  その途中、車が津波で浮いた。すぐに車外に出て、足が水につかるなか、20メートルほど先にある知人の家の2階に逃げ込んだが、妻と息子に何度電話をかけてもつながらない。地区一帯で約500人が命を落とした。2人と会えたのは12日後。遺体安置所でだった。  「一緒に逃げていれば、2人とも生きていたはずだ」。いまも悔いている。  あれから10年がたった市の追悼式。遺族代表として述べた言葉は、あふれる涙で途切れ途切れになった。「我々が味わった、救える命があったかもしれないという無力感、すべてを失った絶望感、一縷(いちる)の望みが断ち切れた嘆き、悲しみ、口惜しさ、申し訳なさ、自責の念はこの先も消えることはないと思います」  もう一つ、多くの人に伝えたいことがある。  当時、市内では親を亡くした子… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちらSource : 社会 - 朝日新聞デジタル