【震災12年】羽生結弦さんが鎮魂の舞 「満天の星は希望の光に」

【動画】「希望の灯火」灯籠に火をともし、亡くなった人たちを追悼した=吉田耕一郎撮影 東日本大震災から11日で12年になります。関連死も含め死者・行方不明者は2万2212人に上りました。大津波に奪われた多くの尊い命を悼み、東京電力福島第一原発事故の影響を今なお受ける人たちの苦悩を忘れない――。きょうをそんな日に。各地の動きをタイムラインでお伝えします。■■■3月10日■■■【動画】釜石市の海岸で地元の警察、消防、海上保安庁らが捜索活動を行った=藤原伸雄撮影18:00エールと鎮魂の思い込め、桜色にライトアップ 被災地へのエールと震災で亡くなった人への鎮魂の思いを込め、大阪府豊中市の市立文化芸術センターが、桜色にライトアップされた。震災直後から東北の被災地支援を続けてきた市社会福祉協議会が企画した。期間は12日の夜まで。 豊中市は、岩手県の大槌町や陸前高田市などと災害時の相互応援協定を締結している。また、豊中市内にある府立桜塚高校は被災地支援のボランティアをきっかけに、2012年に岩手県立大槌高校と、両校の校章が桜をモチーフにしていることから「さくら協定」を結び、交流を続けている。そこで今回、桜色にライトアップすることにした。 10日にあった点灯式には、市社協職員や桜塚高校の生徒のほか、大槌高校の生徒たちもオンライン会議システム「Zoom」で参加し、全員で黙禱(もくとう)した。 大槌高校の生徒たちが復興の歩みなどを紹介し、桜塚高校の生徒の1人が「修学旅行で大槌高校を訪ねて、またいつか関われたらと思っていたので、もう一度再会できてよかったです」と話した後、一緒にカウントダウンして点灯した。17:00羽生結弦さんが鎮魂の舞「満天の星は希望の光に」 フィギュアスケートで五輪2連覇を果たし、プロとして活躍する羽生結弦さん(28)が、地元の宮城・セキスイハイムスーパーアリーナでアイスショー「羽生結弦 notte stellata(ノッテ・ステラータ)」を開催し、鎮魂の舞を披露した。 12年前に羽生さん自身も仙台市内で被災。避難所に向かう途中に夜空を見上げた時に、「満天の星」が見えたという。羽生さんは「ノッテ・ステラータは『星降る夜』という意味です。満天の星は希望の光になりました。一つ一つのプログラムが輝く星になるように滑ります」と語った。 ショーには羽生さんと親交のある国内外の著名なスケーターのほか、体操個人総合で五輪2連覇を果たした内村航平さんも出演した。17:00「ずっと一緒だよ」「会いたい」 600個の灯籠にあかり 東日本大震災の被災集落跡にある宮城県岩沼市の公園で、市の追悼行事「希望の灯火(あかり)」があった。亡き人を導くように並べられた約600個の灯籠(とうろう)に、元住民や遺族らが次々と火をともした。 灯籠には「ずっと一緒だよ」…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「エホバの証人」から意見聴取の意向 厚労相 「輸血拒否は虐待」

 キリスト教系新宗教「エホバの証人」に関連した児童虐待が起きている可能性が指摘されていることに関して、加藤勝信厚生労働相は10日の衆院厚生労働委員会で、「(教団側から)団体としての認識や実情などについて聴くことが必要だ」との考えを明らかにした。今後、輸血拒否など宗教がかかわる児童虐待の実態を把握するための調査研究を進める方針も示した。 立憲民主党の早稲田夕季議員の質問に答えた。 加藤氏は「医師が必要と判断した輸血などの医療行為を受けさせないのは、いわゆる医療ネグレクトにあたる」と改めて説明。「信者である保護者が輸血拒否などを行っているとの指摘をふまえ、法人関係者から団体としての認識などを知るということも大事」と述べた。また「調査研究などにより、輸血拒否の状況も含めた宗教が関係する児童虐待の実態把握を今後行っていきたい」とも話した。 エホバの証人をめぐっては…この記事は有料記事です。残り169文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「おとうはもういないんだ」5年後初めて泣いた娘 心の復興支える場

有料記事武井風花 平川仁 本山秀樹2023年3月10日 22時00分 東日本大震災から12年。2万人余りが犠牲になり、原発事故があった福島を中心に今も3万人が避難を続ける災害で、「心」の復興は一律には進まない。震災後に生まれた寄り添いの形が草の根で展開する一方、複雑になる被災者の悩みや不安をどうすくいあげ、適切な支援につなげるかが課題だ。(武井風花、平川仁、本山秀樹) 宮城県栗原市の訪問看護ステーション脇で2月中旬、移動傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」が開かれていた。東日本大震災で大切な人を失った被災者の悲しみを受け止めようと、地元の住職らが始めた。 テントでたき火を囲む10人ほどの輪が出来た頃、阿部朋佳(ともか)さん(27)がホットサンドを焼き上げ、運んできた。 阿部さんは同県南三陸町の職員だった父良人さん(当時53)を津波で失い、震災の半年後、母淑子さん(63)と実家近くの通大寺で供養をした。泣き崩れる母のそばで、涙をこらえた。当時は高校1年生。主催する金田諦應(たいおう)さん(66)は気になった。「悲しみを吐き出せない方がつらい」。翌夏、子ども向けの寺のイベントを手伝ってもらったのを機に、傾聴喫茶に誘った。 阿部さんはお手伝い感覚で参…この記事は有料記事です。残り2181文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

Masataka Yoshida leads charge as Samurai Japan routs South Korea in World Baseball Classic

Masataka Yoshida made the unprecedented move by a Japanese player to leave his first MLB…

クラーク国際の選抜初戦は大会7日目 新岡主将「一番よい日程」

 第95回記念選抜高校野球大会の組み合わせ抽選会が10日にあり、クラーク国際は大会7日目の24日の第1試合(午前9時開始予定)で、大垣日大(岐阜)と沖縄尚学(沖縄)の勝者と戦うことが決まった。 抽選会は昨大会までコロナ禍の影響でオンライン開催だったが、今回は各校の主将が会場でくじを引いた。 クラーク国際のエースの新岡歩輝主将(3年)は、全体の15番目にくじを引いた。新岡主将は緊張した面持ちで「25番です」と宣言した。 参加校36校中35番目の登場となる。佐々木啓司監督は「土の上で練習できる時間が増えた」と前向き。新岡主将も「自分、チームにとって一番よい日程」と話す。 対戦相手は、昨秋の九州大会を制し選抜大会で2度優勝した沖縄尚学か、選抜準優勝経験のある大垣日大か。「どちらも打撃がよいイメージがある。両者の試合を見て、攻撃スタイルをよく見極めたい」と新岡主将。 抽選会後、選手たちは札幌大通キャンパスなどとオンラインでつないだ壮行会に参加した。男子サッカー部員らから「同じクラーク生として誇り。皆さんの力で、新たな歴史を刻んでくれると思う」と激励を受けた。新岡主将は「全国のクラーク高校の代表として、思いっきり、自信を持ってプレーしてきます」と応えた。(石垣明真) クラーク国際・新岡歩輝主将 昨大会のサヨナラ負けの悔しさを晴らすためにも、まずは初戦突破が目標。自分の投球が勝利の鍵になるため、内外の投げ分けや変化球の精度を上げていきたい。 クラーク国際・佐々木啓司監督 相手の試合を見てから対戦できるのがよかった。初戦まで時間があるので、打撃力を向上させていきたい。守備からリズムを作り攻撃につなげる試合展開を想定している。Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

5類移行後の医療、大丈夫? 「発熱患者を診るか決めかねる」自問

 新型コロナ感染症の5類移行後も、感染者が安心できる医療体制は維持されるのか。ウイルスの感染力が変わるわけではなく、引きつづき医療機関側は感染対策などの負担がある一方、財政支援は減らされ、現場からは対応に戸惑う声も聞かれる。 「5月以降、発熱患者を診るか決めかねている」。東京都新宿区の内科の診療所院長はそう話す。新型コロナ下で、発熱患者は基本診てこなかった。38度以上の熱がある患者が来ると、都の相談窓口を案内してきた。患者の大半は高血圧などの持病がある60代以上で、脳梗塞(こうそく)や心筋梗塞を患う高齢者の訪問診療もしている。「ほかの患者にコロナを感染させてしまうのではないか不安だった」からだ。 だが、5類移行後は、医師法に定められた「応召義務」により、コロナ感染やその疑いを理由とした診療拒否ができなくなる。違反すれば医師免許の取り消しや停止があり得る。「発熱患者を診なくては」という思いはあるが、「高齢のかかりつけ患者に感染が広がらないか。守れるのか」。院長は自問自答している。 都内の婦人科診療所院長は…この記事は有料記事です。残り1066文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

空襲の証言映像、都がデジタル化へ 祈念館構想で収集も非公開20年

有料記事土舘聡一 渡辺洋介2023年3月10日 21時16分 約10万人が犠牲になった78年前の東京大空襲をめぐり、東京都は新年度から、収集・記録しながら非公開としてきた証言映像や戦争資料について、デジタル化する方針を固め、公開を検討する。1990年代に都平和祈念館(仮称)の展示用に集めたものの構想が凍結され、その大半が20年以上、倉庫に保管されたままになっている。 収集したのは空襲体験者330人分の証言映像のほか、焼夷(しょうい)弾の破片などの戦争資料の約5千点。都によると、昨春の都議会で小池百合子知事がデジタル化を進める方針を表明した。「ウクライナ侵攻で平和への意識が高まっていることから、資料や映像を活用して戦争の記憶を風化させない」とねらいを説明。23年度予算案には費用として6402万円を計上した。 都は、330人の証言映像のデジタル化や公開に向けて、展示以外での使用について出演者や家族に意向確認を進めてきた。今年1月末時点で113人の同意を得たが、遺族や体験者本人と連絡が取れないケースも多いという。 貴重な資料はこれまで、市区町村に一部が貸し出されるなどするだけだった。集めたのになぜ、活用されてこなかったのか。「一歩前進」と評価 祈念館に向けた議論も 祈念館の展示内容や歴史認識…この記事は有料記事です。残り705文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

« Le bazooka monétaire supposé réveiller le Japon n’aura pas suffi »

Au pays du Soleil-Levant, on n’hésite pas à prendre des retraites tardives. A 78 ans, Haruhiko…

生きて帰れず七年過ぎ行く 偏見、孤独…短歌に無念つづり、逝った母

 朝、窓を開けると鳥のさえずりが聞こえ、夜は満天の星に包まれる。 集落を囲む山々は、春に淡いピンクのヤマザクラで彩られ、冬には雪化粧をまとう。 阿武隈山地の山あいに広がる福島県浪江町の津島地区。 人口1500人ほどと小さく、住民らが家族のように支え合って生きてきた。アイドルグループの「TOKIO」がテレビ番組の企画で住み込み、農業体験をした「DASH村」の舞台にもなった。 紺野リシ子さんは、この津島で育った。 12年前、83歳だったあの日まで、この地で生涯を終えるつもりだった。 それなのに――。 故郷から引き離され、再び帰れる日はこなかった。突然失われた日常 リシ子さんは1927年生まれ。同郷の広衛(ひろえ)さんとの結婚を機に小学校の教師をやめ、4人の子宝に恵まれた。 よく笑う明るい性格で、趣味は短歌を詠むこと。 家には毎日のように近所の友人が訪れ、茶飲み話で盛り上がった。 周囲からは「リシちゃん」と呼ばれ、家庭の相談を持ちかけられるなど頼られた。 夫に先立たれてからはひとり暮らしで、家事と畑仕事をひとりでこなした。 12年前のあの日も、当時83歳だったリシ子さんは津島にいた。 山も地球も爆発するかと思うほどの揺れと、聞いたこともない大きな地鳴り。 身の危険を感じ、家の前の木にしがみついて時が過ぎるのを待った。 町内の最大震度は6強。人生を大きく狂わす悲劇は、その直後に訪れた。 地震の翌日、さらに2日後と、南東に30キロ離れた東京電力福島第一原発の1、3号機で相次いで水素爆発が発生。浪江町は2011年3月15日、国の避難指示を待たずに、独自で全町民を避難させると決めた。「原発事故で避難してきた」 病院の待合室で明かすと… リシ子さんは薬も持たず、着の身着のままで避難。福島市の長男宅を経て、東京都内の長女のマンションに身を寄せた。だが、急な環境の変化に持病のリウマチの症状が悪化し、精神的にも不安定になった。 「早く福島に帰りたい」。浪江町の職員で、福島に残っていた三男の則夫さん(68)の携帯に何度も電話するようになった。 5月、遠く離れた故郷を思い、日記帳に短歌をしたためた。 《東京の 広き大空 眺めつつ 早く帰りたし 福島の里に》 津島に帰れる日はいつか。この先の生活はどうなるのか。 不安でいっぱいの心を、避難者への偏見がさらに苦しめた。 リウマチの薬をもらうために行った病院の待合室。同年代の女性と話し込んだ。 「どこから来たの」 「福島の浪江町。原発事故で避難してきた」 そう言うと、親しげに話していた女性がスッと席を立ち、いなくなった。 原発事故で避難してきた人の近くにいたら、自分も被曝(ひばく)すると恐れたのだろうか。 「悲しかった。がっかりしちゃった」と則夫さんにこぼした。「ほがらかな気持ちがどこかへ逃げていった」 7月、日記帳に記した言葉には、家族への気遣いと望郷の念が交錯した。 《東京に来て四カ月以上もお世話になりました。 御迷わくをかけて、すまない気持ちでいっぱいです。 毎日福島に帰ることだけ考へて来ました》《津島の人達はどこにいるのだろうか。 早く皆さんに会いたいです。 会って大きな声で話し笑い合いたいです。 私のあのほがらかな気持ちがどこかへ逃げて行った様な気分です》 《福島を はなれて早や四月 思いて遠し 山里の道》仮設住宅に移ったが… 「孤島に老婆 一人きり」 ふるさとを追われ、半年が経とうとしていた2011年8月29日。 リシ子さんは、福島県本宮市に完成した浪江町民向けの仮設住宅に居を移した。 入居ができるようになった、初日のことだった。 市内に避難していた三男の則夫さんは、震災後初めて母の姿を見た。 「どうしちゃったの」 震災前のふっくらとした面影はなく、別人のようにやせていた。 リシ子さんは東京で下痢が続き、震災当時54キロあった体重が10キロも減っていた。 医師に診てもらうと、下痢の原因はストレスだと言われた。 仮設住宅への入居は、悲願の福島への帰還だった。 ところが、工業団地の一角に立つ約100戸の仮設住宅に、顔なじみの友人はいなかった。 《仮設のへやは 四畳半 孤島に 老婆 一人きり》 《故郷(ふるさと)は 遠くになりて 悲しくて 原発にくし 涙ながるる》 《仲良しの 友の姿を 思い出し 元気で居てと 涙流るる》彼岸に自宅へ 「我がふる里は かげもなく」 仮設住宅で暮らす日々のなかで、数少ない楽しみのひとつが津島に行くことだった。 津島は、放射線量が避難基準の2・5倍(年50ミリシーベルト)を超えた帰還困難区域に指定され、避難解除のめどもたたなかったが、住民が手続きをすれば、立ち入ることができた。 則夫さんの車に乗せてもらい、彼岸やお盆などに夫の墓参りや自宅に行った。 《四年目の 春の彼岸に ふる里に 帰り墓を お参りす》 一方で、帰りたくても帰れない現実、避難している間に変わりゆくふるさとの姿を、直視する時間でもあった。 《放射能 色は見えず 晴れ渡る 青空》 《枯れ草しげる 我がふる里は 見るかげもなく悲しき》復興住宅で大けが 故郷にはもう「行けねえ」 「ばぁちゃん、大変だぞ」 2017年4月、則夫さんの携帯に妻から電話があった。 前年春にリシ子さんが移った戸建ての復興住宅に駆けつけると、玄関は血の海だった。 「ごめんなあ」。頭から血を流しているリシ子さんが言った。 則夫さんは「ごめんじゃねえべ」と返した。 使っていた手押し車の進む速さに足が追いつかず、頭から転げ落ちてしまっていた。 車で病院に連れて行き、そのまま入院。鎖骨も折れていた。 約2カ月後に退院したが、体力が落ちて歩行が難しくなり、車いす生活を余儀なくされた。 原発事故で避難を強いられて6年余り。身も心も、孤独な避難生活で弱っていた。 不眠症に悩み続け、体重は震災前から20キロ近く落ちた。 「隣の人が家に入ってきた」「誰かが見ている」。幻聴や幻覚の症状も出るようになった。 あれだけ津島に行くのを楽しみにしていたのに、声をかけても「行けねえ」と断るようになった。 毎日、夕飯をつくりに通っていた則夫さんはあるとき、白い顔で口をぽかんと開けて眠っているリシ子さんの姿を見て、思った。 「おふくろは、もう長くないのかな」 18年1月、リシ子さんは日記帳に願いをつづった。 《今年は体を大事にして生活したいと思います。神様お守り下さいませ。心よりお願い致します。心静かに生活したいです。》部屋に残されていた菓子箱 18年10月、意識がもうろうとして復興住宅で動けなくなっていたリシ子さんの姿を、訪問介護のヘルパーが見つけた。すぐに病院に入院。心不全を起こしていた。 約3週間後の11月18日、則夫さんたちに見守られながら、この世を去った。 リシ子さんが暮らしていた復興住宅を長女が整理していると、ひとつの菓子箱が見つかった。中を開けると、原発事故による避難生活の間、リシ子さんが短歌や日々の思いを書きとめたノートやメモ帳、チラシなど多くの紙片が入っていた。 避難直後から短歌を書き続けた日記帳の記述は、亡くなる7カ月前で終わっていた。 《なつかしき 津島の山の ふる里よ 生きて帰れず 七年過ぎ行く》 則夫さんは、そのなかからひとつの短歌を選び、リシ子さんの通夜で紹介した。 《春が来て 心和ます 桜花 命をかけて 咲きて 散り行く》 原発事故前はふるさとで充実した日々を送っていた母。避難後も帰郷を願い、信じ続けたが、かなわなかった。 そんな自らの命を、散りゆく桜に重ねたのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。福島の災害関連死2335人 「避難で理不尽な最期、知って」 翌年2月、リシ子さんの避難開始から亡くなるまでの体調悪化や治療の経過などをまとめ、浪江町に「災害関連死」として申請した。数カ月後に認定された。 原発事故による避難生活で出てきた不眠症や幻聴・幻覚。避難する必要がなければ、もっと長く元気に生きられたのではないか。その悔しさが、申請に踏み切った理由だった。 避難生活中に母が詠んだ短歌を通じて、原発事故の避難の現実を多くの人に知ってもらえたら――。そう思い、則夫さんは短歌を本にまとめる作業を続けている。 だが、ノートやメモをめくると、母の顔が浮かんできて、涙がこぼれそうになる。 今年1月、自民党の麻生太郎副総裁が自身の後援会の会合で「原子力発電所で死亡事故が起きた例がどれくらいあるのか調べてみたが、ゼロだ」と発言したと知り、怒りがこみ上げた。 リシ子さんのように原発事故の避難に伴うストレスなどで死期を早めたり、避難中に体調を崩したりして亡くなったりして、「災害関連死」として福島県内で認められた人は2335人に上る。東日本大震災の地震や津波で亡くなった「直接死」(1605人)の約1・5倍だ。 岩手県(470人)と宮城県(930人)の関連死と比べても、突出して多い。 直近5年間で亡くなり、関連死と認められた人も33人いる。 福島では、原発事故による避難指示が12市町村に広がり、16万人超の県民が避難を強いられた。当時は原発事故による大規模な避難が想定されておらず、病院の入院患者らが避難中に亡くなる悲劇もあった。そのうえ、いまも7市町村で避難指示が続き、長期化する避難生活が心身に負担をかけているとみられる。 則夫さんは言う。「原発事故でふるさとを離れ、避難生活で苦しみながら、帰れないまま理不尽な最期を迎えた人がたくさんいる。その現実を、多くの人に知ってもらいたい」(福地慶太郎)Source : 社会 - 朝日新聞デジタル

「守られすぎると人は逃げない」 研究者が自問した防潮堤の役割とは

 有川太郎さん(49)は海岸工学研究者として、防潮堤をつくる際の指針づくりなどにかかわってきた。だが各地の津波被害の事例を調べる中で、高い防潮堤があるせいで、人は逃げ遅れてしまうのではないかと考えるようになったという。では、防潮堤はいったい何のためにあるのか。有川さんに聞いた。 防潮堤の高さが人々の安心感を助長し、万一の時に逃げ遅れを招くのではないか。いまはそう考えています。 日本では戦後の高度経済成長時代を通じ、海岸の防護施設が造られてきました。1950年代に大型台風による高潮被害が相次いだことから、ハードの整備で沿岸部を守ることになったのです。約30年かけて築かれ、大きさでギネス世界記録にも認定された岩手県釜石市の「湾口防波堤」などは、その象徴でした。 この間、何度か津波被害もありましたが、防潮堤が大きく壊れることはなかった。 私たち研究者も、津波が防潮堤を乗り越えてくるとは考えていませんでした。防潮堤がどう壊れるかという研究も皆無。思考停止状態だったのかもしれません。 そこへ東日本大震災が起きます。防潮堤をはるかに上回る高さの津波が押し寄せ、倒壊させた。多くの人が逃げ遅れました。 その後、政府の中央防災会議は、大きな方針転換を打ち出します。 数十年から百数十年に一度の規模の津波は、防護施設でくい止める。それを越える大津波は、避難と背後のまちづくりによって被害を減らす。ハードによる「完全防護」から、ハードとソフトの組み合わせでの「減災」へと、かじを切ったのです。 ただ、人々の意識はどれだけ変わったでしょうか。 去年1月、トンガ海底火山噴…Source : 社会 - 朝日新聞デジタル