東京電力福島第一原発から約4キロ離れた小高い丘の上に、小さな石碑がある。 福島県大熊町の木村紀夫さん(55)が2013年夏、津波で亡くなった家族のために自宅裏の丘に作った。「ずっとあなたたちと共に」との文字が刻まれ、隣には可愛らしいお地蔵様。たくさんのお菓子と花に囲まれている。 特集企画「会いたい、会わせたい」東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。 特集企画「生きる、未来へ」3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 1月上旬、木村さんは石碑の前にしゃがみ込むと、献花用の水を替え、両手を合わせ、目を閉じた。後ろから飼い犬のドーベルマンの「ベル」が体をなすりつけてくる。 「わかった、わかった」。木村さんは苦笑いしながら、「じゃあ、捜しに行こうか」とベルの頭をなでた。 拡大する自宅の裏の小さな丘の上に立つ木村紀夫さん。震災後、自宅跡には木村さんが作業小屋や花壇などを作った=2020年11月10日、福島県大熊町、三浦英之撮影 震災前、木村さんの自宅は砂浜から約100メートル離れた、海面より少し高い農地の脇にあった。両親と妻、娘2人の2世帯で暮らしていた。 11年3月11日、木村さんは隣の富岡町の養豚場で働いていた。大きな揺れの後、大熊町へ戻ると、自宅は跡形もなく流されていた。避難所になっていた町の体育館に向かうと、母の巴(ともえ)さん(82)と長女の舞雪(まゆ)さん(20)がいた。一方、父の王太朗(わたろう)さん(当時77)と妻の深雪(みゆき)さん(同37)、次女の汐凪(ゆうな)さん(同7)が行方不明になっていた。 午後5時ごろ、自宅周辺の捜索に向かった。 「汐凪ー、深雪ー」「いたら声を上げてくれー」 夕闇に向かって大声で叫ぶが、返事がない。 午後7時ごろ、自宅裏の丘からベルが砂だらけで飛び出してきた。普段とは違って、リードを付けている。嫌な予感が脳裏をよぎった。「地震後、誰かが自宅に戻り、ベルを外に連れ出して逃げようとしたんじゃないか。そのときに津波にのみ込まれたんじゃ……」 夜を徹して捜したが、結局3人は見つからなかった。翌朝、原発が危機的状況に陥った。木村さんは巴さんや舞雪さんと一緒に大熊町からの避難を強いられた。 1週間後、木村さんは避難していた妻の実家の岡山県から、3人を捜索しようと大熊町に戻ろうとした。しかし、原発の約30キロ手前の道で警備員に止められ、町に近づくことさえできなかった。行方不明になっている3人の写真と自分の携帯番号を記したチラシを作り、避難所などに配って回った。 拡大する木村紀夫さんが避難所の掲示板に貼ったポスター=2011年3月27日、福島県須賀川市の須賀川アリーナ、下地毅撮影(画像を一部加工しています)…
3 ans Il y a