原発の「スイハンの壁」崩れかけていたのに 「また振りまわされる」

 40年以上前から原発建設計画がある山口県上関町。建設予定地の対岸に浮かぶ祝島(いわいしま)の食堂「わた家(や)」はにぎわっていた。

 2011年に綿村友子(68)が開いた店だ。とれたての魚や野菜を幼なじみの女性たちと料理する。滋味あふれるランチをいただき、話を聞かせてもらった。

 綿村は10年に広島からUターンした。建設予定地での座り込みに初めて加わったのは11年2月。中国電力が約600人を動員し、海面埋め立て工事を進めようとした時だ。

 夜明け前に船で向かった。年上のおばちゃんに「戦争よ」と言われ、心臓がバクバクして口から出そうだった。

 その翌月、3・11が起き、工事は一時中断された。「原発はもうできない」という空気が町に広がった。島の緊張感も、次第にゆるんだ。

 ある日、原発推進派の島民がそっと食堂をのぞきこんだ。子どものころ親しかった相手だ。コーヒーを出し、原発の話は避けて、昔話に花を咲かせた。他の推進派の人もご飯を食べに来るようになった。

 5年ほど前からは、仲間とつくる「びわ茶」を本土側にある道の駅に出し始めた。原発の交付金で町が建てた施設だ。抵抗はあったが、若い町職員に「原発は横に置いて考えましょう」と説得された。当時の柏原重海町長も「原発財源に頼らないまちづくり」を掲げていた。

 「やっと町がうまくまわり始…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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