復興で「安全な町」になったはずが 限界集落の懸念、町長の教訓とは

現場へ! 能登へ 首長の教訓①

 宮城県南三陸町の湾岸に、東日本大震災の復興事業で整備された「うみべの広場」がある。ここに2体のモアイ像が並ぶ。

 「1960年のチリ地震津波を縁にチリと町が友好を深めた証し。新しい方は震災から2年後にチリから贈られ、復興する町を見守ってきた」。公務の合間に立ち寄った町長の佐藤仁(72)は説明した。そして、この13年間を能登半島地震被災地の「これから」に重ねる。

 像の前に広がるかさ上げ地はかつて町の中心街だった。住宅や役場は高台へ移った。湾沿いに点在する漁業集落も高台へ集団移転した。

 「安全な町」になったはずだが、佐藤の表情はさえない。

 「時間とともに空き家が増えて限界集落になりそうだ」

 震災後、町は27カ所の移転地を造成。国が「10戸以上」の原則を特例で「5戸以上」に引き下げたのを受け、11カ所が1桁の小規模になってしまった。

 「住民の意向だった。でも人口減と高齢化を考えれば、もっと議論し集約すべきだった」

 能登でも集落再建が課題。南三陸町と似て、山が海に迫る地形なので、佐藤にはひとごとと思えない。

 被災者の意向に沿うか、反対されても持論を貫くか――。

 能登ではホテルや旅館も2次…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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