67年ぶりに届いた戦地の花 贈り主は同じ海に沈む米艦長の息子

 戦死した夫から届いた手紙には、日本軍が占領した北太平洋の島の花が一輪添えられていた。それから67年。妻の元に再びその島から花が届いた。送り主は、夫の船を沈めた米潜水艦長の子どもたちだった。

七夕にしたためた手紙と一輪の花

 「千代さん、当地に来て明日で丁度(ちょうど)一カ月に成るよ」

 1942年の夏、岐阜市に住んでいた篠田千代さん=2012年に101歳で死去=は夫の勇さん(当時37)から手紙を受け取った。

 勇さんは日本海軍の駆潜艇27号の艦長。太平洋戦争初期、日本が占領した米アラスカ州のキスカ島に配属されていた。

 手紙の日付は、七夕の7月7日だった。

 島の草花の美しさを詩的につづると同時に、勇ましい覚悟もしたためていた。

 「千代よ、自分勝手な事ばかり書いて済まなかったね(中略)もう大分暑いことでせう。いやな蚊で夜は閉口している事でせう。送れるものならば当地の寒い空気でも送ってやりたい位だよ」

 軍務の中で書けることは限られていたが、手紙は優しさにあふれていた。居場所を伝えようとしたのか「丁度我々の行動が詳細に6月25日の大阪朝日(新聞)に出て居(お)ります」と書いていた。

 勇さんは海軍に召集されるまで、日本郵船の船乗りとして世界を巡っていた。夫婦の間には3人の子どもがいた。「お前達四人の健康と幸福をお祈りして筆を止めませう」と締めくくった後、追伸でこう記していた。

 「当地の花を送り、僕の心をこれに託そう」

 ユリのような花が一輪、挟んであった。

 千代さんは生涯、この手紙と花をきれいに保管していた。

 手紙を書いた8日後、勇さんの駆潜艇は米潜水艦の魚雷によって沈められた。

消えた米潜水艦グラニオン

 その潜水艦「グラニオン」を指揮していたのは、マナート・エイブリー艦長だった。

 潜水艦グラニオンも、間もなく消息を絶った。エイブリー艦長にも3人の息子がいた。

 12歳だった長男のブルースさん(93)はその頃、米ボストン郊外の自宅の裏庭で、父親の無事を祈ってバスケットボールを投げ続けていた。

 「5回連続でシュートが決まったら、お父さんは帰ってくる」

 だが願掛けはかなわず、グラニオンと父親の行方は戦後になっても、分からないままだった。

 それから約60年の歳月が過ぎ、インターネットの時代になって、グラニオンの行方の手がかりが突如現れた。

 そこから始まる、日米2人の艦長とその家族の間の物語を追った映画「霧が晴れるとき」が、昨年末の東京ドキュメンタリー映画祭で長編部門の準グランプリに選ばれた。26日と3月3日には、大阪・十三のシアターセブンで上映される。

海底1000メートル、3兄弟は父を捜した

 グラニオンの情報をもたらしたのは、神戸市に住む岩崎裕さん(65)だった。海事愛好家の岩崎さんは2002年、模型ファンのインターネットサイトで、ある米国人が骨董(こっとう)店から1ドルで買ったという古い図面を見つけた。

 「鹿野丸」という文字が読め…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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