矢仁田繁人上等兵 ノモンハン従軍記 1939年8月20日に始まったソ連の総攻撃で、フイ高地にいた23師団捜索隊759人中、脱出できたのは269人だけ。その一人が、当時上等兵だった矢仁田(やにた)繁人だ。2015年に死去した矢仁田は09年5月、91歳だったときに熊本県山都町の自宅で取材に応じ、「フイ高地の戦いは今も忘れられんです」と語った。 8月20日、猛烈な砲撃が始まりました。ハルハ河が見える南の方角から撃ってきましたです。 拡大するノモンハン事件に従軍した当時の矢仁田繁人さん=本人提供 あんな戦闘は初めて。いや、あんな撃たれっ放しの戦闘は初めてでした。向こうの方が標高が高いですから、撃ち下ろす感じ。こちらが1発撃てば100発撃ち返されましたです。榴弾(りゅうだん)が多かったとです。ドンッとはぜるのと同時にバッと音がして、刀のように細長い鉄の破片をまき散らします。これに当たればおしまいでした。 陣地には、深さ1・5メートル… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
意識不明だった妻死亡 霊園で首絞めたとして夫逮捕(テレビ朝日系(ANN))
All Nippon NewsNetwork(ANN) 宇都宮市にある霊園で87歳の夫が89歳の妻の首を絞めて殺害しようとしたとして逮捕された事件で、意識不明の重体だった妻が死亡しました。 15日午前8時すぎ、宇都宮市中岡本町の霊園で「父が母の首を絞めて自殺を図った」と110番通報がありました。警察によりますと、「今から死ぬ、墓で死ぬ」などと連絡を受けた長男が霊園に駆け付けたところ、横たわった増渕チヨさんと、自ら首を紐で絞めて死のうとしている増渕昌容疑者を見つけたということです。妻のチヨさんは意識不明の重体でしたが、16日朝に死亡しました。警察は容疑を殺人未遂から殺人に切り替えて捜査する方針です。増渕容疑者は「妻は数年前に骨折して腰を悪くし、体調が悪い妻をかわいそうに思って殺そうとした」と容疑を認めています。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
「裏の飯島さんに召集が來た」14歳がつづった戦争の日常(西日本新聞)
福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記 八月三日(金)曇後雨 今朝は全く久しぶりに警報が出なかった。 今日も缺席(けっせき)。下痢は、きのふまでは、良くなってきてゐたのに、今日は又(また)悪くなった。九時頃までに便所に四回行った。 松本さんのところに本箱及(およ)び本を疎開させるので、客間の本箱二つを出して、その中に大事な本をつめて、あとの二つの本箱は、うちにおいて、その中には別に大事でない本を入れた。 裏の飯島さんに召集が來(き)た。もう四十三・四才位(さいくらい)の方だけれど。 午後は殆(ほとんど)ど便所に行かなかった。 父は今日宿直である。 今日は全く警報が出なかった。一体何日ぶりだらうか。 【注釈】この頃の食糧事情として、1945(昭和20)年8月3日の西日本新聞朝刊に「常食に活(い)かせ山菜類」という記事がある。決戦食確保のため利用できるものとして「ヒユ、イヌビユ、スベリヒユ、クローバー、アカザ、オオバコ」などのあえ物や油炒め。代用茶として「カワラケツメイ、萩の葉」など。動物性タンパク質として「食用蛙(がえる)はもちろん、普通の蛙の照り焼き」「蝗(いなご)のミンチボール」「蛇のてんぷら」「オタマジャクシの団子」などが「美味である」としている。 八月四日(土)曇後小雨 今日はだいぶよくなって、便所は朝一回しか行かなかった。 十五時頃空襲警報が発令された。この二日間、沖繩(おきなわ)方面が暴風とのことで警報が出なかったので、久しぶりにサイレンを聞いたやうだ。小型機が久留米平野を通過したやうだ。 夕方三人で、きのふ松本さんの二階にあづけた本を整理し、且(か)つ又(また)、數(すう)十册(さつ)の本をもって行った。で、うちには、ほんのガラクタしかない。 僕は今日を加へて五日間缺席(けっせき)したが、山本君も、今日を加へて四日間休んださうだ。やはり腹痛ださうだ。工場の水道の水は、筑後川の水を直接引いたものだから、やはり僕と同じやうに生水をのんで腹をこはすのだらう。 國武(くにたけ)さんにおととひお借りした本をかへし、「遊びの理科研究」をかりた。 十五時空襲警報 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
夫婦2人だけの慰霊祭 不戦への思い、背景に「常に空腹だった」幼少期の記憶(西日本新聞)
75回目の終戦の日を迎えた15日、北九州市小倉北区黒原の平和公園に一組の夫婦の姿があった。戦没者の遺族でつくる小倉南北区遺族連合会事務局長の宮崎賢二さん(77)と妻シヲ子さん(77)。同会は例年、終戦の日に平和公園で慰霊祭を催すが最近、参加者は宮崎さん夫婦を含めてわずかしかなく、今年は新型コロナウイルスの影響で中止。それでも夫婦は2人だけでも「慰霊祭」をやろうと足を運び公園内の忠霊塔前で黙とう。「戦争は幼かった私たちを苦しめた。二度とあってはならない」と不戦の思いを改めて強めた。 宮崎さん夫婦は結婚を決めた47年前、約束を交わした。「子どもたちには絶対に貧しい思いをさせない」。強い思いの裏には2人がそれぞれ経験した幼少期の記憶があった。 終戦時。ともに2歳だった2人。賢二さんは父一郎さんを戦争で失っていた。 一郎さんは、げた職人として一家を支えてきたが徴兵され、1945年6月14日、乗っていた護衛艦が沖縄近海で攻撃され、亡くなった。まだ34歳だった。 大黒柱を失った母政子さんは賢二さんと妹の順子さんを連れて実家に身を寄せた。政子さんは実家の農作業を手伝い朝から晩まで働いたが、生活は貧困を極めた。賢二さんは「魚や肉が食卓に並ぶのは月に一度あるかないか。常に空腹だった」と振り返る。 シヲ子さんは4人きょうだいの長女として今の門司区に生まれた。戦争に家族の命を奪われることはなかったが、終戦直後、父親は空襲で被害を受けた門司で仕事を見つけることが難しく、家族と離れ、大工として出稼ぎに行かざるを得なかった。敗戦の影響なのか生活は厳しく、母親も家計を支えるため魚の行商で働きづめ。シヲ子さんは仕事で忙しい両親に代わって炊事、洗濯などの家事をしながら、5歳下の妹と7歳下の弟の面倒もみた。厳しい日々だったためか、シヲ子さんは「子どもの頃のことは思い出したくない」と漏らす。 2人は知人の紹介で出会い結婚。賢二さんが29歳、シヲ子さんが30歳のときだった。賢二さんは製造会社で43年間働き、シヲ子さんは専業主婦として家庭を支えた。決して裕福ではなかったが2人の子どもは大学まで行かせた。 子育てを終え、小倉南区で暮らしながら遺族会の運営に尽力する賢二さんとシヲ子さん。今、心配するのは遺族会による慰霊祭が今後どうなっていくかだ。 遺族会の会員は約20年前は200人近くいたが高齢化で今は70人ほど。体が不自由な人が多く、慰霊祭への参加は一昨年は夫婦含めてわずか3人だった。台風に見舞われた昨年は今年と同様に中止だった。 「若い世代には日本が戦争をしたことさえ知らない人もいる」と2人。今回、2人だけでも「慰霊祭」を催したのは、継続することで今後、若い人の参加につながればとの思いもあるからだった。「来年も自分たちの体が動く限りやります」 (野間あり葉) Source : 国内 – Yahoo!ニュース
8.15「祈りのサイレン」実施に地域差 継承の一つ、苦情に配慮も(西日本新聞)
75回目となる終戦記念日の15日、どこかで追悼のサイレンを耳にしただろうか-。戦没者を悼み、街中や集落で正午にサイレンが鳴り響く光景は、どの自治体でも見られるものではない。九州7県の県庁所在地と政令市の計8市のうち熊本や長崎など6市は終戦記念日に加え広島、長崎両市の原爆投下時刻にサイレンを鳴らすが、福岡、北九州両市ではない。戦争体験者が少なくなる中、75年前の「あの日」に思いをはせる機会の一つをとっても、地域差がある。 【画像】戦没者追悼のサイレンを巡る自治体の状況 「ウーーーー」。15日正午、うだる暑さの熊本市内にサイレンが1分間鳴り響いた。中心部の下通アーケードを歩いていた大学2年の村上公信さん(19)=同市北区=は足を止め、目を閉じた。「毎年しっかり黙とうをしていて、いい意識付けになっている。悲惨な歴史を繰り返してはいけない」と語った。 市によると、市役所本庁舎や公民館、公園など288カ所に設けるスピーカーでサイレンを鳴らし、ほぼ全域で聞こえるという。大西一史市長は、西日本新聞の取材に対し「戦争の記憶が薄れる中で語り継ぐことや受け継ぐことは行政の使命。サイレンは小さなことかもしれないが、継承の一つとして大事にしている」と語った。 被爆地・長崎市も市全域にあるスピーカー463カ所でサイレンを流す。原爆投下時刻の9日午前11時2分、サイレンに合わせて市民が街角で立ち止まり、犠牲者に黙とうをささげる姿が多く見られる。 自治体の中には地域を限定しているところもある。佐賀市は無線のスピーカーがある194カ所のうち、鳴らすのは126カ所。「平成の大合併」前の旧市内は市役所本庁舎でしか鳴らない。理由について担当課は「資料がないので不明だが、市民を驚かせないように配慮したのでは」と話す。 鹿児島市も市役所本庁舎と支所の計10カ所でしか流れない。それでも市民から「うるさい」と苦情が寄せられたことがあり、担当者は「趣旨は分かってもらえていると思う」と困り顔だ。 一方、サイレンが鳴らない福岡市。「豪雨時に聞こえにくい」として、そもそも屋外にスピーカーを設置していない。長崎原爆の当初の投下目標だった北九州市では、津波対策用のスピーカーが沿岸部にあるだけで、鳴らしていない。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
安倍総理と麻生副総理が会談 内閣改造など協議か(テレビ朝日系(ANN))
All Nippon NewsNetwork(ANN) 安倍総理大臣は15日、麻生副総理を自宅に招き、会談しました。今後の政権運営などについて意見を交わしたとみられます。 安倍総理の自宅で1時間ほどにわたった会談では、秋の内閣改造や自民党役員人事などについて協議した模様です。また、新型コロナウイルスへの対応をはじめ、今後の政権運営についても議論したとみられます。安倍総理は例年、お盆は山梨県の別荘で静養し、ゴルフなどを楽しみますが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえ、都内にとどまる予定です。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
新型コロナ影響調査:COVID-19診療従事も76.6%「危険手当なし」(m3.com)
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染リスクを負いながら、最前線で働く医師に対して、一部の医療機関では独自に危険手当などを支給する動きも出ている。しかし、そうした手当てを受け取ったのは勤務医の17.5%にとどまり、COVID-19診療に従事した医師でも23.4%だった。 勤務先で診療に従事した勤務医の76.6%、検体採取に従事した勤務医の70.3%が「支給されない」と回答。支給される場合でも金額は1日5000円未満が多かった。 一方、診療や検体採取に携わっていない勤務医でも8.8%は手当が支給されると回答した。 医療機関による独自の慰労金については、87.4%が支給されないと回答。支給する医療機関はごく一部にとどまるようだ。 【調査概要】 調査期間:2020年6月19日~6月26日 対象:m3.com医師会員 回答者数:計1266人 開業医439人=無床診療所406人、有床診療所33人 勤務医827人=大学病院163人、公立・公的病院246人、民間病院278人、診療所116人、フリーランス11人、その他13人 m3.com編集部 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
中洲のバー2店舗でクラスター 福岡で新たに75人感染
福岡県では15日、新たに75人の新型コロナウイルス感染が判明した。県内で確認された感染者は、延べ3559人になった。 75人の内訳は、福岡市発表分が39人、北九州市発表分が12人、県発表分が24人。 県によると、クラスター(感染者集団)が発生した福岡青洲会病院(粕屋町)で新たに職員4人と患者4人の感染を確認。同病院の感染者は計54人になった。 北九州市では日中にカラオケが出来る飲食店の従業員や客3人の感染がわかった。この店ではすでに2人の陽性が判明しており、市はクラスターが発生した可能性があるとみている。 福岡市では中洲のバー2店舗で新たなクラスターが発生した。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
全国で相次ぐ水の事故 山梨県や栃木県などで4人死亡
15日、川や海での事故が相次ぎ、4人の死亡が確認された。 山梨県大月市では午前8時ごろ、同県南アルプス市の会社員青柳一司さん(40)が桂川で見つかり、死亡が確認された。県警によると、青柳さんは1人で釣りに訪れ、川を渡ろうとした際に転倒して流されたという。 宇都宮市では午後2時すぎ、男性が鬼怒川に沈んで死亡した。県警によると、集団でバーベキューをしている途中に、1人で川に入ったという。 栃木県大田原市の那珂川では、前日から行方不明だった東京都江戸川区の専門学校生、小池健太さん(19)の遺体が見つかった。 千葉県鋸南町の沖合では、千葉市の会社員男性(24)がおぼれて死亡した。千葉海保によると、男性は友人らと訪れ、シュノーケリングをしていた。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
負傷兵の最期の声、今も耳に 衛生兵の私がした「仕事」
丸太の木を並べ、その上にヤシの葉を敷いた高床式の野戦病院。ベッドに横たわり、息絶える負傷兵。 香川県三豊(みとよ)市に住む政本道一(まさもとみちかず)さん(99)の自宅には、戦地の記憶が描かれた紙芝居が置かれている。 政本さんは戦時中、東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で負傷兵を救護した元陸軍の衛生兵だ。趣味の絵手紙を元にした紙芝居のそばに腰掛け、ゆっくりと話し始めた。 『野戦病院では、横におった兵士が死んだいうたら、すぐにその後に負傷者が入ってくる。いかにようけ、死んだかわかりゃあせん。2日と生きとらんですよ。もうとことんやられて、入ってきますけんな』 1943年春、政本さんを乗せた輸送船が広島・宇品港を出港した。行き先を知らされずに上陸した先は、約4500キロ離れた南方の島。死んでも帰れぬニューギニア――。当時、そう呼ばれたほどの激戦地だった。 「殺してくれ!」 そう叫んで暴れる負傷兵の体を、政本さんら5、6人で押さえつける。軍医が銃弾を取り除こうと傷口を切開するが、麻酔薬は底を突いていた。負傷兵は手術中に激痛で気を失った。 戦況は悪化し、負傷兵が担架で次々運ばれてきた。目玉が飛び出ていたり、手足がなかったり。虫の息の兵士を前に、軍医は「もう駄目だ」とつぶやいた。 政本さんの耳に残るのは、若い兵士たちの最期の言葉だ。政本さんにしがみつき、涙を流しながら、こんな言葉を残して逝った。 「お母さん、すまなんだ」「お母さん、助けて下さい」「お母さん、ありがとう」 既婚の兵士たちの多くは妻や子の名前を呼んだ。 彼らの手を握り、体を抱き、声をかけた。「心配するな。必ずお前の言い分を家族に届けるから」 『そう言うたら、安心して死んでいくんですよ。そのやりとりがもうな、涙が出ますよ。わしは何遍泣いたか、わかりゃせん。それが衛生兵の仕事ですけんな』 「家族にせめて届けられたら」。遺髪を切り、かばんに忍ばせた。 野戦病院で苦しむ負傷兵たち。そのなかに、政本さんの「親友」がいました。しかし、その瞬間は訪れました。 医薬品や食料が届かなくなり、病院を解体する日が来た。上官からこんな命令が下りた。「患者を後方へ護送せよ。移動できない患者は自決せよ」 どうしても見捨てられない負傷… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル