2021年8月10日 17時23分 警察庁は10日、7月の自殺者数を発表した。速報値では1590人で、昨年の7月を275人(14・7%)下回った。月間の自殺者数は昨年7月以降、12カ月続けて前年の同じ月を上回っていたが、13カ月ぶりに減少に転じた。 警察庁によると、男性が1074人で昨年7月より10・4%減り、女性は516人で22・5%減った。前年の同じ月から減少したのは、女性は14カ月ぶり、男性は6カ月ぶり。 都道府県別では、東京が188人(昨年7月比で15人減)と最多で、神奈川101人(同17人減)、愛知も101人(同4人増)と続いた。大阪は76人で、63人の大幅減となった。 2020年の自殺者数は19年より912人(4・5%)多い2万1081人(確定値)に上り、女性や若者の増加が目立った。 厚生労働省は「こころの健康相談統一ダイヤル」(0570・064・556)などの利用を呼びかけている。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
Japan’s summer high school baseball tourney reopens after COVID-19 break
Nishinomiya, Hyogo Pref. – The summer edition of the national high school baseball tournament, Japan’s iconic amateur sporting event, reopened Tuesday after it was canceled in 2020 due to the coronavirus pandemic. The 103rd tournament is being held under strict coronavirus protocols to avoid outbreaks, and only people associated with […]
NHK記者はなぜ過労死した 100人以上の証言で問う
8年前に過労死したNHK記者の佐戸未和さん(当時31)の遺族や元同僚らに取材したドキュメンタリー「未和 NHK記者の死が問いかけるもの」が動画配信されている。制作したフリーの映像制作者、尾崎孝史さん(55)は100人以上への取材から、佐戸さんが亡くなる直前まで重圧やストレスの中で仕事に追われていた姿を浮かび上がらせた。 100人以上、計120時間の取材 佐戸さんは2013年7月24日、うっ血性心不全で亡くなった。取材していた都議選、それに続く参院選の投開票の3日後だった。 NHKが佐戸さんの過労死を公表したのは、労働基準監督署の認定から3年以上たった17年10月だった。翌朝の新聞で両親が「このままでは未和の死が風化し、葬り去られる」と語っていたのを読んだのがきっかけで、尾崎さんは取材を始めた。 代理人の弁護士を通じて両親に手紙を出すと、10日ほど後に母の恵美子さん(71)から着信があった。 1回、2回と両親に取材を重ね、3回目からカメラを回し始めた。小さい頃から弟や妹をよく気にかけていたこと。一橋大在学中に民放ラジオ局の番組に携わり、メディアに関心を持ったこと……。 佐戸さんの初任地の鹿児島にも足を運び、東京での同僚や上司らにも取材を試みた。約3年半にわたって100人以上に取材し、カメラを回した時間は計約120時間に。真摯(しんし)に取材相手と向き合い、正義感をもって仕事に明け暮れていた佐戸さんの人柄が浮かんできた。 重圧のかかる選挙取材 最後に佐戸さんが担当してい… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:713文字/全文:1365文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
2キロ続く一枚岩の渓谷 自然の「水流遊歩道」人気
大畠正吾2021年8月10日 13時00分 大分県宇佐市院内町にある岳切(たっきり)渓谷が、涼を求める家族連れたちに人気だ。溶岩で出来た一枚岩とされる平らな川底が約2キロ続き、数センチほどの深さで清らかな水が流れる。足を水に浸しながら散策する、全国でも珍しい「水流遊歩道」の趣だ。 覆いかぶさるように茂る樹木が日差しをさえぎり、涼しい風が吹き抜ける中で沢歩きを楽しめる。福岡県行橋市から来た久篠楓(くしのかえで)さん(10)はコロナ禍でプールの授業がなくなり、水に入るのは今年初めて。「水がきれいで、気持ちよかった」と笑顔をみせた。 渓谷には市が2019年にリニューアルした、コテージを備えるキャンプ場もある。渓谷の利用料は中学生以上200円、小学生100円、未就学児は無料。問い合わせは渓谷管理棟(0978・42・6326。8月末まで)へ。(大畠正吾) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「自分は女の子」高2息子が告白 母は逆に問いかけた
自分は女の子――。4年前の夏、金沢市の自宅で高校2年の我が子から打ち明けられた。 母親(47)は「そうなの」と返した。 その後、子はLINEで思いを寄せた。女性の自覚を持ちながら男性の体でいることの苦痛、生きるつらさ。そして性別適合手術を受けるため「協力してほしい」と求められた。 突然の告白だったが、驚きはなかった。 10年ほど前のことだ。「結婚することになった。いまは男として生きている」。大学時代の友人から電話で告げられ、混乱した。トランスジェンダーの知識はあったが、言いようのない不安が募った。まるで相手が自分の知る存在でなくなってしまうような――。 結婚式場で友人の姿を見て、不安は消えた。「大学時代のまま。本人は本人。性別が変わっただけで、むしろしっくりくる姿になったと思えた」。以来、性的少数者の話題に意識が向くようになった。 「あれがなかったら、頭でわかっても心がついていかなかったと思う」 我が子の告白を受け止め、逆に問いかけた。 「なんでもっと早く言わんかったん? お母ちゃんが反対すると思った?」 返ってきた答えは、「反対す… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 残り:1015文字/全文:1498文字 Think Gender 男女格差が先進7カ国で最下位の日本。生きにくさを感じているのは、女性だけではありません。だれもが「ありのままの自分」で生きられる社会をめざして。ジェンダーについて、一緒に考えませんか。[記事一覧へ] Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
食文化の新大久保駅、ダンスの西日暮里駅 山手線に拠点
JR東日本が、山手線の駅を起点にそれぞれの街の個性と人のつながりを生み出すプロジェクト「東京感動線」に取り組んでいる。地上でつながる都心の環状線という特長を生かし、これまでは「エキナカ」に象徴されるように移動と消費の拠点だった駅を、その街に暮らす人たちをつなげる拠点にしよう、という新しいアプローチだ。各駅で多彩な試みが始まっている。 JR新大久保駅直結で今春に開業した食の交流拠点「K,D,C,,,」は、多様な食文化が集まる街の特性を前面に出した。異なるジャンルや国籍の料理が混じり合って、新たな食文化の創造をめざすという空間だ。 食ビジネスの創出につなげるシリーズ講座「フードカレッジ」の7月のテーマは「納豆を通して知る食のダイバーシティ」。フードデザイナーの中山晴奈さんが、タイや韓国など世界各地の納豆文化を紹介した。講座を主催するオレンジページの鈴木健正さん(54)は「食文化の背景にある多様性を伝えたい」と語る。 「山手線は、30駅すべてで景色が違う」とJR東日本でプロジェクトを担当する古田恵美さん(45)。地上でつながる環状線は世界的にみても珍しいという。世界一の乗降客数と言われる新宿駅などがある一方、下町や高級住宅街、多国籍な街など多彩なエリアの玄関口もある。これまで「エキナカ」など移動と消費の拠点としての機能充実に力を入れてきたが、「次のステップとしてそこに暮らす人が参画して広がるフィールドに」と説明する。2018年10月に東京感動線のプロジェクトを打ち出し、これまで様々な動きが生まれている。 象徴的なのが西日暮里駅(荒川区)だ。19年10月、構内に交流拠点「エキラボniri」が開業。地域に根ざしたワークショップを開催してきた。 設計・運営を担う「ハギスタジオ」の柳(りゅう)スルキさん(28)は「西日暮里の特徴とは何か」がすぐには浮かばなかったという。駅の売りも乏しく、高輪ゲートウェイ駅開業まで駅のスタンプが「山手線で一番新しい駅」だったほど。 だが調べると、社交ダンスが盛んで映画「シャル・ウィ・ダンス?」の舞台だったり、今や珍しいアコーディオンメーカーがあったり。西日暮里の姿を発見し、講師を招く中で、新たな人脈が生まれ、内容は多彩になっていった。 この拠点づくりに関わったJR東の川井恵里子さん(32)は「この街の良さに気づくことができた。みんな、西日暮里が好きで、私もその中の一人に加われた実感がある」と笑う。 新施設ばかりではない。駅周辺の街歩きから歴史や魅力を伝える、さまざまな活動が始まっている。 池袋では今年6~7月、「街の案内人」の養成講座を開催。立教大学生や池袋で働く人らが参加し、チャイナタウンに代表される多国籍な表情や、ロサ会館周辺の古い雑居ビルが並ぶ繁華街などを歩いて学び、それぞれがツアー企画を考案した。(井上恵一朗) 「東京感動線」の取り組み例 ・有楽町駅 ガス灯デザインタイルや赤レンガなど名所を写したステッカー配布 ・大塚駅 飲食店や雑踏の音を収集し、楽曲を制作 ・代々木駅、原宿駅 「とっておきの自然」テーマにフォトコンテスト ・高輪ゲートウェイ駅 東京スリバチ学会会長が案内する高輪の凹凸地形と歴史ツアー ・沿線の特集を組んだフリーマガジン発行 ・#山手線の車窓を語ろう お気に入りの景色をツイッターでつぶやくキャンペーン Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
茨城・大洗の研究炉、停電で緊急停止 環境への影響なし
川村剛志2021年8月10日 13時14分 日本原子力研究開発機構は10日、大洗研究所(茨城県大洗町)で停電が起き、高温工学試験研究炉(HTTR、熱出力3万キロワット)を停止したと発表した。放射性物質の漏れなど環境への影響はないという。 同機構によると、9日午後11時57分ごろ、停電で研究炉の外部電源が失われたため、非常用電源に切り替え、約2分後に炉を停止させた。その後の点検で研究炉に異常はなく、12日に再起動させるという。 研究炉は東京電力福島第一原発事故後、国の新しい規制基準に対応する安全対策を進め、今年7月30日に約10年半ぶりに運転を再開したばかりだった。国内唯一の次世代型高温ガス炉で、発電はせず、高温ガス炉の安全性の実証試験や、炉からの熱出力を利用した水素製造の研究を進める。(川村剛志) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
直前にサラダ油購入か、防犯カメラに記録 小田急線刺傷
東京都内の小田急線車内で6日に起きた刺傷事件で、殺人未遂容疑で逮捕された対馬悠介容疑者(36)=川崎市多摩区=が事件前、自宅近くのスーパーでサラダ油とライターを買っていたことが捜査関係者への取材でわかった。車内には油がまかれており、警視庁は対馬容疑者が購入した油を使ったとみている。 対馬容疑者は電車内で乗客を次々と襲ったほか、サラダ油をまいて火を付けようとしたとされる。捜査関係者によると、「灯油が用意できず、代わりに使った」「自宅から持ってきた」などと話したという。 ただ警視庁の捜査では、対馬容疑者が電車に乗る直前、自宅最寄りの小田急線読売ランド前駅近くのスーパーで、サラダ油とライター2本を買っていたことがわかった。防犯カメラなどに記録されていたという。 捜査関係者によると、警視庁… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:362文字/全文:711文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「いつか東京五輪で盆踊りを」 亡き前会長の夢が叶った
川口敦子2021年8月10日 10時30分 8日夜の東京五輪の閉会式。中盤、日本各地の伝統の踊りが紹介されたあと、国立競技場(東京都新宿区)に盆踊りの定番「東京音頭」のメロディーが響きわたった。 ♪ 花の都の 花の都の真ん中で サテ ヤットナ ソレヨイヨイヨイ 歌い手を囲んで円になって踊る浴衣姿の人たちの動きをまねて、リズムをとる各国の選手たちの姿がテレビに映し出された。 「まさか本当に東京音頭が流れるとは。油断していました。前会長の夢がかなってうれしい」 そう話すのは、日比谷公園(千代田区)の園内にあるレストラン「日比谷松本楼」の広報を務める寺内晋(すすむ)さん(41)だ。例年約4万人が訪れる夏の恒例行事「日比谷公園大盆踊り大会」の事務局長を務める。 松本楼の小坂哲瑯・前会長は、東京五輪の閉会式に盆踊りを採り入れる提案をしていた。その場ですぐ踊りの輪に加わることができ、一体感を得られるのが盆踊りの魅力。「いつか東京五輪で盆踊りをやりたい」。企画書を作り、自民党の国会議員らを回る熱の入れようだったが、2018年に86歳で亡くなった。 小坂さんの願いが通じたかのような閉会式での東京音頭の風景。寺内さんは社長からの連絡で知った。仕事帰りで見逃したが、9日にユーチューブで見た。 寺内さんは言う。「メダルに喜び、感染者増加に不安になった五輪の17日間だった。盆踊り大会はコロナ禍で2年連続で開催できていないが、来年こそ絶対開きたい」(川口敦子) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
インパールを生き抜いた107歳父 祖父にも驚きの過去
宮城県栗原市の後藤信一さん(107)は第2次世界大戦中、3万人もの日本兵が命を落としたとされるインパール作戦を、命からがら生き延びた。その体験をつぶさに記した1冊のノートがある。息子の公佐(こうすけ)さん(83)が語る。 オヤジ(信一)がひょっこり戻ってきたのは、終戦翌年の田植えの頃でした。戦地に赴き3年。何の音信もなくもうダメかと思っていたので、家族は大騒ぎでした。7歳の私(公佐)はそのやせた姿に「誰、この人?」と思ったものです。栄養失調でそのまま3カ月入院しました。 以来、オヤジは百姓ひと筋。誰からも好かれるおおらかな性格です。戦争の話を私たちにすることもほとんどない。ただ、近所の同年代の人と茶飲み話になると、「中国はこうだった」「ビルマ(ミャンマー)はもっとひどかった」と、戦地の思い出で盛り上がっていました。 体も弱くなってきた20年ほど前、貴重な体験を残したらどうだと、ノートを渡したんです。ふだん文章など書かないオヤジが合間合間に書き始め、3、4年かかったでしょうか。 鉛筆で1行おきにびっしり埋めてある。私が知らなかったことばかりで、読んで驚きました。 地名や現地の様子を細かく覚えている。極限状態を生き抜いたことを、つぶさに記しています。 「迫撃砲は弾の後ろに羽根がついていて、ピュウピュウと気持ち悪い音をたてて飛んでくる。直径1尺位の木枝がバリバリ折れた。死ぬか生きるかの戦いで、頭の毛がまっすぐ立った」 「(出征した)昭和18年8月以来、同じ服の着通しで、ひざ下まであった半ズボンは大きいパンツの様になって、腹巻きはシラミが真っ白に行列している」 「(退却する)山道は、足の踏み場も無いくらい両側に白骨が続く。鼻や口にハエが真っ黒になって、ブンブンしている。この坂を越そうと、頑張って来たのだろうと思う」……。 実はオヤジの父親・後藤房之助は1902年、旧陸軍の訓練で210人中199人が遭難死した八甲田山雪中行軍の生還者。青森市には銅像も立っています。ノートを見ると、オヤジは出征時、房之助のことを思い、「俺だって、どんな事があっても帰ってくるんだと、肝に堅く銘じていた」そうです。 コロナ禍、10カ月ぶりに会ったオヤジは敬礼した 文章はパソコンで起こし、冊子を25部作って親族一同に配りました。 オヤジは百歳を前にして体が… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル