2021年8月9日 14時59分 愛知県稲沢市の市営住宅で高橋輝男さん(71)と娘の礼(あや)さん(29)が殺害された事件で、県警は9日、息子で無職の智(さとし)容疑者(25)を輝男さんに対する殺人容疑で再逮捕し、発表した。容疑を認め、動機について「家族のなかで疎外感を持っていた」という趣旨の説明をしているという。 稲沢署によると、智容疑者は7月19日夜、輝男さんの背中を包丁で多数回突き刺すなどして殺害した疑いがある。輝男さんには、身を守るために腕などにできる「防御創(ぼうぎょそう)」とみられる傷もあったという。 智容疑者は、礼さんへの殺人未遂容疑で同20日に現行犯逮捕された。礼さんは搬送先の病院で亡くなった。署によると、智容疑者は4月から輝男さんらと同居。事件直前に輝男さんと口論していたという。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「野球できる平和」かみしめ 被爆3世の長崎商女子マネ
三沢敦2021年8月9日 20時02分 10日に開幕する全国高校野球選手権大会。被爆地・長崎代表の長崎商の部員らは9日、76年前に原爆が投下された午前11時2分、滞在先の大阪府堺市の室内練習場で黙禱(もくとう)した。この日の甲子園の開会式は延期になったものの、被爆3世のマネジャー簗瀬彩巴(いろは)さん(3年)は平和への願いを胸に、選手らと夢の舞台に立てる喜びをかみしめた。 爆心地に近かった当時の校舎は壊滅的な被害を受け、学校や動員先で生徒や教職員ら174人が犠牲になった。学校には慰霊碑があり、毎年8月9日に全校生徒が登校して慰霊祭が営まれ、平和について学ぶ。 簗瀬さんは夏になる度、亡き祖父、矢一さんから聞いた話を思い出す。「乗っていた電車がトンネルにさしかかった時、原子爆弾が落ちたんだ」「姉に手を引かれて必死で逃げたよ。トンネルを抜けると、いつもと違う世界だった」。矢一さんは当時、3歳。かすかな記憶をたぐり寄せ、繰り返し聞かせてくれ、こう言った。「本当に怖かった」 長崎商が同じ舞台に立った5年前、矢一さんは75歳で亡くなった。丈夫で元気なおじいちゃんだと思っていたが、白血病で闘病生活を送っていた。 夏の甲子園は過去3度中止になった、と聞いた。理由の一つが戦争、一つが新型コロナウイルス。コロナの影響で戦後初めて開催が見送られた昨年、泣きじゃくる先輩たちにかける言葉も見つからなかった。 いまなお続くコロナ禍で野球ができることへの感謝と、平和への感謝――。「野球ができるのは当たり前なんじゃない。きっと特別なことなんだ」。二つの感謝が重なる夏だ、と簗瀬さんは感じている。(三沢敦) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
YOUの五輪どうだった? 出国ラッシュの空港で聞いた
【動画】東京五輪閉幕から一夜明け、それぞれの国に向け出国する選手や関係者ら=加藤諒、関田航撮影 東京オリンピック(五輪)の閉会式に参加した外国選手らが9日、帰国の途についた。東京・羽田空港ではボランティアたちが手を振って選手を見送った。 大会組織委員会によると、この日に出国する大会関係者は約1万人。羽田空港では、チェックインする選手の列が朝からできた。「また東京に来てください」と大勢のボランティアが声をかけていた。 自転車競技で銀メダルを獲得したデンマーク代表アマリー・ディデリクセン選手(25)は「ボランティアの人たちがフレンドリーで素晴らしかった」と話した。滞在中は、静岡県内の宿舎と競技会場の往復だけだったが「このような状況では厳しい規則は必要だった。パンデミックが終わったら必ず日本に来たい」と話した。 4×400メートルリレー男子に出場したインドのノアニルマル・トム選手(26)は、選手村に滞在した。部屋も食事もスタッフにも不満はなく、「すべてが整っていて、よいパフォーマンスにつながった」と語った。北京五輪から4大会を経験し、東京では銅メダルを獲得したノルウェーのハンドボール女子のマリットマルム・フラフィョル選手(35)は「人々が礼儀ただしく、いつも笑顔なのが印象的だった」。感染の不安はなかったか尋ねると、「毎日検査をしていたから心配はなかった」と答えた。 一方、PCR検査態勢に不備があったと指摘したのは、エストニアの五輪委員会のメルレ・カルランさん(49)。検体の回収が遅れがちになっていたという。ただ「五輪のように大きなイベントですべてがうまくいくわけではない。感染対策は完璧ではないが、十分だった。大会が成功したのは、パンデミック下の奇跡だ」と評価した。 大会を取材したコロンビアの… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:361文字/全文:1074文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
前首相と全く同じ文言も…「見捨てられた」長崎の被爆者
会員記事 佐々木亮、真野啓太、小川裕介2021年8月9日 19時51分 「長崎原爆の日」の9日、菅義偉首相が就任以来初めて長崎市の平和祈念式典に臨んだ。「首相が代われば、政策も……」。地元の被爆者らは注視したが、前政権からの型通りの言葉に隔たりは埋まらなかった。 昨年、安倍晋三首相(当時)の広島と長崎の式典あいさつが酷似していて、「コピペ」などと批判を浴びた。今年の菅首相のあいさつも、広島と同じ文言が随所にみられた。さらに「(この地が)美しく復興を遂げたことに、私たちは改めて、乗り越えられない試練はないこと、そして、平和の尊さを強く感じる」などと、昨年の首相あいさつと全く同じ部分もあった。 ここ数年、首相あいさつは援護施策について「被爆者の方々に寄り添いながら」「推進してまいります」という言葉を繰り返してきた。だが9日に菅首相と面会し、要望書を手渡した長崎の被爆者5団体の代表は「寄り添われていると感じたことはない」「被爆者は見捨てられている」と口々に訴えた。 会見で首相「「訴訟が継続中」とだけ 要望書は、今年1月に発効し… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:522文字/全文:958文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
家族の被爆知らずショック 体験聞き、受け継ぐ大学生
長崎純心大2年の平山英恵(はなえ)さん(19)は、岡信子さんの体験を聞き取り、語り継ごうとしている。一方で、岡さんが受けた傷や原爆に対する世間の関心が低いのを目の当たりにし、継承の難しさも感じている。 岡さんが式典に参列していた9日午前11時2分、平山さんは、長崎県北部・平戸市にある海が見える図書館の駐車場で、同じく岡さんの体験を聞き取っている鍜治(かじ)美里さん(19)と一緒に黙禱(もくとう)を捧げた。サイレンは鳴っていたが、周りの人は何事もなかったかのように過ごしていた。 スマートフォンの画面には、平和への誓いを力強く述べる岡さんの姿があった。2人がまだ聞いたことのない体験が盛り込まれていて、「まだまだ聞き取りが足りないな」と感じた。 平山さんは中学生の時、戦争の歴史を演劇を通じて学んだ。長崎原爆や沖縄戦がテーマで、家族を亡くしたおばあさんの役を演じ、未来ある子どもの命が戦争で失われたと知った。 ただ、長崎市から北に75キロ離れた平戸市で高校まで過ごした平山さんが被爆者と接するのは、毎年8月9日の平和学習だけ。平和に関心はあったが、身近な被爆者を知らず、「原爆はどこか遠いものなんだろうな」と感じていたのも事実だった。 そんな自分や家族に目を向けるきっかけを与えてくれたのが岡さんだった。 大学入学後、平和活動をする同大の学生団体に入った。今年4月からは、同じ大学の鍜治さんとともに岡さんの聞き取りを始めた。6月上旬、母にそのことをLINEで伝えた。近況報告のつもりだったが、こう返事があった。 じいちゃんは、被爆地拡大で被爆者に認定された。お母さんは被爆2世 家族のことすら知らなかったことがショックだった。だが、車で30分ほどの場所にいる祖父(78)に、その後も詳しい話は聞けないでいる。「原爆を思い出すのもいやだった」と岡さんから聞いているだけに、ためらいを覚えるからだ。 「被爆者が経験を語るのは本当に重いこと。受け継ぐ私たちも思いに応えられるように勉強しなきゃ」 岡さんから聞き取った話は今夏中にも原稿にまとめる。来春までに長崎原爆資料館で証言することが目標だ。それまでには祖父の話を聞きたいと思っている。 平山さんのように、家族や第三者が被爆者の経験を聞き取って語り継ぐ「家族・交流証言者」は44人が公益財団法人・長崎平和推進協会の認定を受けている。市が2016年度から始めた事業で、被爆者が亡くなっても体験を引き継ぐ狙いがある。協会によると、7月20日現在、第三者が聞き取った被爆者16人のうち、すでに2人が亡くなった。(米田悠一郎) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
停電で一時全線運転見合わせ 東急大井町線
2021年8月9日 15時29分 東急電鉄大井町線は、9日午後1時40分ごろに発生した停電のため、大井町駅(東京都品川区)から溝の口駅(川崎市)までの全線で一時運転を見合わせていたが、午後4時に運転を再開した。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
愛知・豊川で突風、26棟被害 「看板がなぎ倒された」
村上潤治、本井宏人2021年8月9日 15時44分 9日午前6時半ごろ、愛知県豊川市で台風9号の影響による突風が発生した。県災害対策課によると、同市千歳通4丁目―本野町の南北約2・4キロの範囲で、屋根がはがれたり看板がなぎ倒されたりするなどして、建物26棟と車22台が被害を受けた。けが人はいないという。 愛知県警豊川署などによると、同日午前6時50分ごろから「信号が消えている」「家が損壊した」などの通報が相次いだ。現場近くでは一時1850世帯が停電したが、順次復旧している。 屋根が破損した中華料理店の男性店長(50)は「大きな音がして外に出ると、そこらじゅうの看板がなぎ倒されて、10台ほど車のガラスが割れていた。店を十数年やっているが、こんなことは初めて」と驚いていた。「姫街道」と呼ばれる県道の両脇にある店舗などの看板や屋根の破片が一時、県道にまで散乱した。 名古屋地方気象台によると、愛知県内は9日朝、東部の山間部を除き、強風注意報がでていた。豊川市と隣接する豊橋市の午前7時の最大瞬間風速は14・4メートル。同気象台は、豊川市の突風が竜巻だったかどうかの調査について検討中としている。(村上潤治、本井宏人) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
マラソン観戦自粛の札幌 ゴール時の人出、10%以上増
芳垣文子2021年8月9日 16時06分 札幌市中心部で東京五輪男女マラソンが行われた7、8の両日、発着点となった大通公園周辺の競技時間帯の人出が、1週間前の同時間帯に比べ8~4%多かったことがわかった。増加率は選手たちがゴールする時間帯に大きくなり、両日とも前週を10%以上上回った。 ソフトバンクの子会社「Agoop(アグープ)」がスマートフォンの全地球測位システム(GPS)などから取得したデータを基に、朝日新聞が集計した。地下鉄大通駅の半径500メートルの1時間当たりの平均人口を比べた。 7日(土曜日)の女子マラソンは午前6時スタート。1時間前の午前5時台から、競技後の同10時台までの6時間分について、前週の7月31日(同)と比較した。 7月31日の1時間当たりの平均人口が4万526・67人だったのに対し、7日は4万3916・83人で3390・16人増加。平均増加率は8・4%だった。 1時間ごとの増加率は、競技開始前の午前5時台(6・1%増)から徐々に上がり、最も大きかった午前8時台には12・7%、次いで9時台は10・9%だった。金メダルのペレス・ジェプチルチル選手(ケニア)のゴールは午前8時27分、8位で入賞した一山麻緒選手は同8時半だった。 男子マラソンは翌8日午前7時スタート。午前6時~同11時台の人出を、前週の8月1日と比較した。1時間当たりの平均人口は、1日の4万4390・67人に対し、8日は4万6217・67人で1827人増え、平均増加率は4・1%だった。金メダルのエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)や6位の大迫傑選手がゴールした午前9時台の増加率は10・3%だった。 五輪のマラソンでは、新型コロナウイルスの感染再拡大のため、沿道での観戦自粛が呼びかけられた。だが、コース沿いには大勢の人が集まり、所々で「密」ができた。アグープのデータによると、女子、男子ともに、競技の数時間前から平均人口の上昇が顕著で、観戦や大会関係者による人出が増えたとみられる。(芳垣文子) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
きっかけは熊本地震 自宅に銭湯、構造設計建築士の決意
黒岩裕樹さん=2021年6月23日、熊本市中央区神水2丁目、藤本久格撮影 熊本市の市街地に黒岩裕樹さん(40)の自宅を兼ねた銭湯「神水(くわみず)公衆浴場」がある。アーチ型の屋根に開放的な窓。玄関先のベンチで飲み物を手に過ごす人もいて、しゃれたカフェのようだ。2階で家族と暮らす黒岩さんが昨年8月にオープンさせた。「自宅に銭湯を」と思い立ったきっかけは、5年前の熊本地震だった。 銭湯を兼ねた自宅の玄関先に勢ぞろいした黒岩裕樹さん(左)と家族=2021年7月3日、熊本市中央区神水2丁目、本人提供 本業は建物の耐震性などを計算する構造設計1級建築士。仕事が終わると、妻のヒロ子さん(41)や両親と交代で、玄関を兼ねた番台に座る。夕方になると、近所のお年寄りや部活帰りの高校生たちが白いのれんをくぐって、やって来る。「いい湯をありがとうとお客さんから言われると、やっぱり始めて良かったと思う」 熊本市出身。大学卒業後、東… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:653文字/全文:969文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
核のごみに揺れる寿都 気象庁職員が町の歴史を写真集に
昨年来、「核のごみ(原発から出る高レベル放射性廃棄物)」の最終処分場問題に揺れる北海道寿都町。そんな町にかつてあった測候所に勤務した一人の気象庁職員が、町の歴史を調べ、人々に話を聞いて文章を書き続けてきた。現在、釧路地方気象台に勤務する山本竜也さん(45)。2018年に写真集にまとめ、今回新たに「続寿都歴史写真集 昭和二十一年~」が完成した。漁業や鉄道、町の風景や行事など600枚超の戦後の寿都が収められた2冊目はずっしりと重い。 山本さんが寿都測候所に赴任したのは06年春。休日には海や川での釣り、山登り、スキーなど寿都を満喫していたが、08年秋で同測候所が閉鎖されることになった。 最後の所員の一人となった山本さんは測候所史作りのために町の歴史を調べるうちに、町の発展を支えたニシン漁のほか、寿都鉄道、鉱山などにも興味を持った。当時を知る人たちに話を聞き、ホームページを立ち上げて文章を発表。転勤後も取材を続け、「寿都五十話」、「南後志に生きる」などの本を自費出版してきた。 18年に出した最初の写真集は明治期から終戦ごろまでの写真450枚を掲載。今回の「続―」に収めた写真は戦後の1946年以降で、町民や元町民らから5千枚を集め、610枚を掲載した。漁業、町並み、寿都鉄道、鉱山、農村……などテーマは全14章に及ぶ。スマホで誰でも写真が撮れる今とは違い、まだ貴重だった写真の中の人々はかたい表情が多いが当時の服装や町並み、暮らしぶりが分かる。全ての写真に山本さんが取材、執筆した解説文が付けられている。 また、610枚の中には室蘭出身で、高校教師を務めながら道内で写真を撮り続けた故掛川源一郎氏による寿都の写真50枚も入っている。写真、フィルムを管理する掛川源一郎写真委員会(札幌市)の協力で、寿都を撮影した数十本のフィルムから山本さんが厳選した。その中の寿都小学校運動会のモノクロの1枚が印象的だ。撮影は1969年。見物のために作られた数百のむしろ小屋がぎっしりと並び、手前に運動着姿の子どもたちが写っている。山本さんは「未公開の写真がほとんど。掛川さんの寿都の写真を紹介できたことはよかった」と話す。 「なぜそれほど寿都のことを… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:759文字/全文:1685文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル