角島大橋の周囲にはコバルトブルーの海が広がる=2021年7月26日午前10時53分、山口県下関市豊北町、藤脇正真撮影 コバルトブルーの海へ延びる、長~い橋。車で走ると、割れた海の上にいる気分になった。渡った先には、もう一つの絶景が。 本州から日本海に架かる角(つの)島(しま)大橋を渡り、角島(山口県下関市)の西端へ向かうと、御影石造りの壮麗な灯台が見えてきた。1876(明治9)年に初点灯した日本海側で最古の洋式灯台。以来140年以上、姿を変えずに航海者たちを見守り続けてきた。 灯台は遠くからでも見やすいようにペンキで白く塗られることが多いが、白い御影石はそのままでもよく目立つ。角島灯台のような無塗装の灯台は全国でも他に2カ所だけだという。 高さは約30メートル。内部は一般公開しており、105段の細いらせん階段を上ると海を見晴らす展望台に出る。 夕日が沈んだ少しあと、その展望台のすぐ上に明かりがともった。光の源は小さな電球。それが周りを囲う高さ約2・6メートルの巨大な特殊レンズによって強い光となり、約34キロ先の海上まで届く。灯台用としては最大の「1等レンズ」で国内に5基しかないという。 夕暮れ時、日本海に沈む夕日を見ようと角島灯台周辺にはカップルや家族連れが集まる=山口県下関市 設計したのは、国内で約30基の灯台を手がけ、「日本の灯台の父」とも呼ばれる英国人技師R・H・ブラントン。その歴史的・文化的な価値を認められ、昨年国の重要文化財に指定された。管理する門司海上保安部の橋川秋彦次長は「目視で位置が分かる灯台は船乗りの命綱。まだまだ現役です」。 記事後半では、地元で人気のグルメスポット紹介や会員登録すると応募できるプレゼントもあります。 かつて島と本州との交通手段… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:762文字/全文:1360文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
大阪・門真で倉庫火災 1500平方メートル焼け16時間後に鎮火
2021年9月4日 18時06分 大阪府門真市舟田町の「ジャパン唐和(とうわ) 舟田倉庫」で4日未明に発生した火災について、守口市門真市消防組合消防本部は同日午後4時55分ごろに鎮火したと明らかにした。今後、出火原因を調査するという。 同消防本部や門真署によると、鉄骨3階建て倉庫約1500平方メートルが焼けた。けが人は確認されておらず、倉庫には仏具などが保管されていたという。 現場は京阪電鉄大和田駅の南約1・2キロ。消火活動中は倉庫の窓や屋根から黒煙が上がり、周辺に焦げたにおいが広がった。そばを走る国道163号も通行止めになった。 【動画】大阪府門真市の工場で火災=朝日放送テレビ撮影 近くに住む稲垣寿子さん(80)は「早朝、ベランダの外を見たらすごい炎でびっくりして外に出た。身近でこんな火事は初めてで驚いた」と話した。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
【特集】深層崩壊あった紀伊水害から10年「親孝行してくれた娘へ」
台風に伴う豪雨が長く続き、三重、和歌山、奈良の3県に大きな被害をもたらした「紀伊半島大水害」から4日で10年。山肌があらわになった土砂崩落の爪痕は今もくっきりと残り、被害の大きさを物語っている。4日には、奈良や和歌山の被災地で追悼の行事が開かれた。 慰霊碑とキャンドルの前で合掌する、亡くなった児童の同級生たち=2021年9月4日午前1時8分、和歌山県那智勝浦町井関、直井政夫撮影 10:30 奈良・五條 「この10年、ずっと見守ってくれた」 4日午前、奈良県五條市大塔町の宇井地区で市主催の追悼式があった。約20人の遺族の最前列には、長女の中西麻紀代さん(当時37)を失った母の和代さん(78)の姿があった。慰霊碑の前で手を合わせ、献花した。 追悼式の後、娘の名前が刻まれた石碑に線香をあげる中西和代さん(中央)ら=2021年9月4日午前11時55分、奈良県五條市、柴田悠貴撮影 三重、奈良、和歌山の3県に大きな被害をもたらした紀伊半島大水害。3県で山の斜面崩壊が3千カ所を超え、崩壊土砂量は東京ドームや大阪ドームの約80個分にあたる約1億立方メートルに達し、降雨による土砂災害としては戦後最大規模となった。 宇井地区でも大雨は降り続いた。近くの観測では、3日ほどの総雨量が989ミリを記録した。 雨が上がった4日午前7時7分、対岸の山が幅220メートル、長さ350メートルにわたって岩盤ごと崩れた。深層崩壊による大量の土砂は熊野川を越えて河床から高さ約40メートルに達し、そばの宇井地区がのみこまれた。11戸が流され、8人が死亡し、3人は行方不明のままだ。 和代さんはその時、麻紀代さんと一緒に近所の様子を見て回っていた。避難が必要かもと感じ、川沿いにある自宅の玄関に入ろうとした瞬間だった。 「あっー」 近くで悲鳴を聞いた後、気を失った。「腕のあたりが痛い」。転落した川にいることに気づき、がれきにつかまった。対岸に渡って救助された。家にいた夫の好久さんも斜面にしがみつき、無事だった。だが、麻紀代さんがいなかった。 自宅は土砂に流され、何もかもなくなっていた。「(悲鳴は)聞いたことのない娘の声でした。もうだめだとわかりました」 6年近くたった17年6月。麻紀代さんは約20キロ下流のダム湖で遺体で見つかった。被災後、好久さんはショックで持病が悪化。19年12月に78歳で亡くなった。「おれが代わってやれたらよかったのに」と何度も漏らしていた。 麻紀代さんは、2人の兄がいる末っ子。高校を出て就職し、一時は家を離れたが、再び一緒に住むようになった。仕事を休んで好久さんの通院の送り迎えをするなどしてくれた。「我慢強くてね。一生分ぐらい親孝行してくれましたね。私が甘えていたほどでした」 追悼式の後、和代さんは近くにある住民が建立し慰霊碑にも親族6人で立ち寄り、妹3人と作った折り鶴と花束を手向けた。 「いまでは娘が夢に出てくることもなくなりました。この10年、ずっと見守っていてくれたみたいでした。もうゆっくりとやすんで下さい」。和代さんは麻紀代さんの冥福を祈った。(福田純也) 追悼式の後、娘の名前が刻まれた石碑の前で手を合わせる中西和代さん(右)=2021年9月4日午前11時51分、奈良県五條市、柴田悠貴撮影 01:30 和歌山・那智勝浦 「天国で仲良くしていますか」 祈りのキャンドル 2011年の台風12号による土石流などで死者・行方不明者が98人にのぼった「紀伊半島大水害」から4日で10年。被害が集中した奈良や和歌山の被災地では追悼の行事が営まれ、遺族らは鎮魂の祈りを捧げた。 死者・行方不明者が29人となった和歌山県那智勝浦町。中でも大きな被害を受けた同町井関にある「紀伊半島大水害記念公園」で4日、追悼式(那智谷大水害遺族会主催)があり、遺族ら約60人が出席した。 被害が出始めたとされる午前1時。犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑前で29個のLEDキャンドルに明かりがつけられた。遺族らが1分間、黙禱(もくとう)し、手を合わせた。 慰霊碑の前で手を合わせる遺族ら=2021年9月4日午前1時11分、和歌山県那智勝浦町井関、直井政夫撮影 遺族会代表の岩渕三千生(みちお)さん(60)は「みんな、天国で仲良くしていますか。二度と水害が起きないように、見守ってよ」と、29人をあらわすキャンドルを見つめた。「10年は区切りじゃない。何年たってもつらい気持ちは変わらない。この日がくるたびに仕事が手につかない」という。 大水害でおいの紘明(ひろあき)さん(当時15)を亡くし、一緒に復旧作業をしていた父の三邦(みくに)さん(当時76)は体調を崩して心筋梗塞(こうそく)で倒れ、災害関連死に認定された。 10年前の9月3日、岩渕さんは町から約20キロ離れた三重県紀宝町の自宅にいた。降り続く雨で近くの川があふれ、床上浸水した。 「ただごとではない」。紘明さんと三邦さん、母の3人が住む実家に電話をしたが、つながらない。那智勝浦町に住む友人から「どえらいことになった」との知らせが入ったが、道路はあちこちで通行止めとなり、動きがとれなかった。翌4日昼になって、ようやく実家にたどりついた。 実家のある井関地区では、近くの那智川が氾濫(はんらん)。濁水が道路にあふれ、巨石や流木、流された車などが民家にぶつかっていた。実家は大木が突き刺さって傾き、弟から紘明さんが行方不明になったと聞いた。 紘明さんら3人は2階に避難したが、水が押し寄せてきた。紘明さんは窓ぎわから流されそうになった祖母をつかんで連れ戻し、三邦さんに渡した。その直後、ドンと木がぶつかる音がした。紘明さんは流され、5日後に遺体でみつかった。 岩渕さんは和歌山県立新宮高校の野球部副主将をつとめ、甲子園をめざす球児だった。岩渕さんを慕う紘明さんも地域の硬式野球チームに所属し、「(岩渕さんの)近くにいたいから」と親元を離れて甲子園を夢見ていた。 岩渕さんは、紘明さんの同級生に会うたびに思う。生きていれば25歳。「紘明はプロ野球選手になれただろうか。いや、あいつの実力だと、無理かなぁ」。悔しさ、悲しさ、さまざまな思いが募る。 大水害の翌12年、町内の遺族は「那智谷大水害遺族会」をつくった。町はこの年、岩渕さんの実家跡などを買い取り、記念公園を整備した。遺族会がそこに慰霊碑をたてた。岩渕さんは母と公園の清掃を続けている。 遺族会は12年、写真集「紀伊半島大水害 あの日、那智谷で何が起こったのか」を作成した。岩渕さんらの呼びかけに約1万点の写真が集まり、約850枚を選んで掲載した。約7千部を販売し、売上金は広島や熊本などの被災地へ送ってきた。今年7月に土石流被害のあった静岡県熱海市へも届ける予定だ。 大水害の風化が心配という岩渕さん。町内でも被害のなかった地域では関心が低いと感じる。「犠牲になった29人に託された使命だ」。そう誓い、記憶をつなぐ活動を続ける。(直井政夫) 大水害の翌日、県道上には大きさ数メートルの岩が散乱していた=2011年9月5日午前6時36分、和歌山県那智勝浦町井関、千葉雄高撮影 発生当時と今 写真で比較 10年前、マリアナ諸島の西側の海で発生した大型の台風12号はゆっくりと北上した。9月3日午前、高知県東部に上陸し、4日未明に日本海に抜け、台風の進路の東側にあたる紀伊半島に豪雨をもたらした。広い範囲で降り始めからの総雨量が1千ミリを超え、一部で2千ミリにも達した。 深層崩壊でえぐられた山肌。左下が宇井地区の集落=2011年9月11日、奈良県五條市大塔町、五條市提供 長期間にわたる豪雨で奈良、和歌山、三重の3県で起きた斜面崩壊は3千カ所以上。崩壊土砂量は東京ドームや大阪ドームの約80杯分にあたる約1億立方メートルに及び、豪雨による土砂災害では戦後最大規模になった。3県の死者・行方不明者は88人に上った。 崩壊斜面の安定化と護岸工事が完了した後も災害の爪痕はくっきりと残る=2021年8月26日、奈良県五條市大塔町、福田純也撮影 砂防事業を手がける国土交通省紀伊山系砂防事務所は1日、奈良県五條市大塔町宇井地区などの土砂崩落現場で報道機関に説明会を開いた。 宇井地区では対岸の清水地区の山の斜面が大規模に崩れる「深層崩壊」が発生。8人が死亡し、3人が行方不明となっている。 紀伊山地の険しい山々に抱かれた宇井地区の大災害はどんな状況下で起きたのか。五條市発行の「大水害の記録」などでたどった。 深層崩壊により大量の土砂が熊野川に流れ込んだ=2011年9月4日、奈良県五條市大塔町、五條市提供 市大塔支所の観測では、10年前の9月1日から雨量計欠測となる4日午前2時までの雨量は989ミリを記録。雨はその日早朝に上がったが、熊野川対岸の清水地区の急峻(きゅうしゅん)な山肌からは、黒い水が大量に流れ出ていた。斜面の末端部で「表層崩壊」が始まっていた。 午前7時7分。清水地区の山の斜面が大きく動いた。表土層の下にある岩盤ごと崩れる、深層崩壊が起きた。 幅220メートル、長さ350メートル(高さ250メートル)にわたって斜面が崩れ、約160万立方メートルの土砂が流れた。その勢いはすさまじかった。大量の土砂は熊野川の水を巻き込んで河床から高さ約40メートルに達し、対岸の宇井地区をのみ込んだ。 地区には当時、谷沿いに39世帯が軒を寄せ合っていた。3割にあたる11戸が全壊。崩れた土砂はさらに、川の流れをせき止める河道閉塞(へいそく)(土砂ダム)を起こした。午前8時23分に土砂ダムは決壊。被災した家が一気に下流に押し流された。 惨事が起きたのは、天気が回復に向かいつつあるのを見て、河床に近い住民が避難所から自宅に戻ってきた矢先だった。 […]
原爆投下された広島の写真に「×」、原発関連の資料で…なぜなのか
佐賀県唐津市が、原発関連の資料で原爆投下後の広島などの写真に「×」印を付けていた問題で、市は謝罪して資料を今後使わないことを明らかにした。「×」の意味について市は「原爆と原発は違うことを示したかった」と説明した。写真は現地でどのように撮影され、伝えられてきたものだったのか――。記者が広島を訪ねて考えた。(西部報道センター・福井万穂) ×印の写真4枚、うち3枚は広島で撮影 広島原爆の日を間近に控えた8月3日、広島市中心部にある平和記念公園にはテントやいすが並べられ、式典の準備が進んでいた。園内の広島平和記念資料館には、子ども連れら多くの人が訪れていた。 記者は2019年の全面リニューアル前に、一度訪れて以来の訪問。同年度の入館者数は約175万8700人だった。 資料館は本館と東館があり、原爆投下当日の状況や放射線被害、核廃絶に向けた動きなどが、時の流れに沿ってわかるようになっている。 本館では、被爆者の遺品や爆風で折れ曲がった鉄骨など、実物の展示を重視。ぼろぼろになった制服や弁当箱などには、持ち主の写真や人柄の紹介、家族の言葉が添えられている。 本館を入ってすぐ、「8月6日の惨状」という薄暗い展示室。唐津市の資料に使われた写真の1枚が目に入ってくる。原爆投下から約3時間後、爆心地から2キロほどの派出所が臨時の治療所となり、やけどを負った学生らが集まる様子をとらえたものだ。 「頰に涙が伝い、ファインダーを通す情景がうるんだ。まさに地獄だ」。写真の横には、撮影した中国新聞の元カメラマン、松重美人さんの言葉が書かれている。 著書によると、松重さんは自宅で爆風に襲われ、自身も血を流しながらカメラを手に街へ出た。午前11時ごろ、派出所前で見たのは、髪も皮膚も焼けた人たちの姿だった。 「助けて」「水をください」… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 残り:2099文字/全文:2870文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ドアを開けると刃物男、住人が刺されて男は逃走 大阪市淀川区
2021年9月4日 15時30分 4日午前8時45分ごろ、大阪市淀川区木川東の集合住宅で「知らない男が来て包丁で切られた」と住宅1階の部屋に住む外国籍の男性会社員(30)から110番通報があった。男性は左胸などを縫うケガを負ったが命に別条はない。大阪府警淀川署が殺人未遂事件として、逃げた男の行方を追っている。 署によると、同日午前8時半ごろ、インターホンが鳴ったため男性がドアを開けると、包丁を持った男が突然男性の左胸を切りつけてきたという。男は30代くらいで身長180センチ程度。めがねをかけ、帽子をかぶっていたという。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
大規模接種センターで若者向け接種開始 予約枠2時間で埋まる
政府が東京と大阪に設置している新型コロナウイルスワクチンの自衛隊大規模接種センターで4日、18~39歳の若者に限定した予約枠の接種が始まった。通常向けの予約枠の空きを活用したもので、25日まで実施する。 防衛省によると、若者向けの予約枠は東京が約2万2千人分で、3日午後6時に予約の受け付けを始めてから2時間余りで埋まった。大阪は約6千人分で、9日前後に予約の受け付けを始める予定。 大規模接種センターでは、東京で1日1万人、大阪で1日5千人に接種できる。25日までは2回目の接種期間で、予約枠に空きが生じていた。センターの運営期間を当初の予定より約2カ月延長し、11月30日までとすることも決まった。(成沢解語) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
大阪・門真で倉庫火災 10時間超1500平方メートル焼け消火続く
2021年9月4日 12時00分 4日午前0時半ごろ、大阪府門真市舟田町の「ジャパン唐和(とうわ) 舟田倉庫」で「火災報知機が鳴っている」と警備会社の男性から消防に通報があった。 守口市門真市消防組合消防本部や門真署によると、鉄骨3階建て倉庫約1500平方メートルが焼け、4日午前11時現在も消火活動が続いている。けが人はいない。倉庫には仏具などが保管されていたという。 現場は京阪電鉄大和田駅の南約1・2キロ。倉庫の窓や屋根から黒煙が上がり、周辺に焦げたにおいが広がった。そばを走る国道163号も通行止めになった。 近くに住む稲垣寿子さん(80)は「早朝、ベランダの外を見たらすごい炎でびっくりして外に出た。身近でこんな火事は初めてで驚いた」と話した。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
おやつどうする?「密」どう回避? 学童保育でも感染増、対策に苦慮
新型コロナウイルスの「第5波」では、子どもたちにも感染が広がっている。小学校の夏休み延長や分散登校の実施が相次ぐなか、親が働く家庭の子どもたちが通う学童保育(放課後児童クラブ)の現場も対応に追われている。十分な広さが確保できなければ、密な場所で子どもたちが過ごすことになってリスクは高まる。学童でのクラスターも各地で発生しており、現場は緊張の日々が続く。 子どもの姿 見ていて「切なくなる」 横浜市立の小学校は、1日から2学期が始まったが、同月上旬は分散登校。給食は2日から提供されている。 市内にある学童「わんぱくハウス」は、正午から午後7時まで開所する。 指導員で事業所長の執印(しゅういん)由里子さん(39)によると、小学校1~6年生の54人が利用するなか、感染防止で最も気を使うのが食事だという。市からは、2学期以降の学童の運営について、「おやつの提供は原則中止」という通知が示された。執印さんは「夕方まで過ごす子が空腹になるのを避けるためにも、おやつをなくしてよいのか」と悩んだ。 第5波の前も、昼食やおやつの時は間隔を空けて座っていた。第5波で子どもたちの感染が各地で増えてからは、一人ひとりに小型のテーブルを割り当てる方式に変更。テーブルは、それまで以上に子ども同士の距離が取れるように置かれている。いま子どもはそこに1人ずつ座って黙食している。 新学期が始まる前に保護者や小学校の校長らとも相談を重ね、手洗いや消毒を徹底して、このやり方でおやつの提供を続けることになった。「対策を徹底しても、不安はある」 子どもたちが過ごす場としての変化も感じる。遊んでいる時も、高学年の児童が低学年に「マスクずれてるよ」「手洗った?」と声をかけるようになった。執印さんは「この1年、大人が注意するのは感染防止に関することばかりなので、子どもも分かっている。その姿を見ると、切なくなる」と話す。 さいたま市は8月26日から… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:2032文字/全文:2852文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
学校ムリなら家に行くよ 親子を救った民間教育サービス
子どもが不登校で自宅を出られず、親もストレスを抱える。そんな悩みを持つ家庭から、訪問やオンラインによる民間教育サービスに注目が集まっている。コロナ禍で子どもの心の問題が懸念されるなか、集団生活への復帰や学力向上など、様々なニーズに対応するものが出てきている。 体が当たると手で拭かれ…不登校 当初は風呂も入れず 東京都の高校1年の女子生徒(15)は、小学5年のころにいじめにあった。クラスメートに近づくと「あっちに行こうよ」と距離を置かれ、偶然に体が当たると手で拭くようなしぐさをされた。休み時間には一人、机で絵を描いた。登校がつらくなっていった。 「学校に行きたくない」。そう漏らしたが、理由がわからない母親(58)は当初、「行きなさい」と送り出した。次第に気力が尽き、不登校に。休んだ直後は眠り続け、風呂も食事も自力ではできなかった。 外に出られず、人とも会えない状況が続いた。母親が地元の支援センターに相談したが、積極的に動いてくれないと感じた。 外に出られず孤立 頼った家庭訪問サービス そんな時にネットで見つけたのが、家庭訪問などのサービスで不登校生を支援する「オールライト」(東京都)。入会金のほか、月に5500円と別途訪問料。「払えない金額じゃない」と利用を決めた。 同社の相談員が数回自宅を訪… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:1321文字/全文:1883文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「大丈夫」と言う住民説得、避難の10分後に土砂崩れ 間一髪の救助
中島健2021年9月4日 8時41分 昨年7月の豪雨の際、事前の避難誘導で命の危険を防いだとして、大分県は3日、防災功労者として日田市の2人に感謝状を贈った。避難のわずか後には土砂崩れが起き、施設や住宅が全壊する被害が起きていた。 感謝状を贈られたのは、日田市天瀬町赤岩の杉河内地区で班長を務める平野一義さん(68)と、同市中津江村栃野地区の高齢者福祉施設「安寿苑」を運営していた市社会福祉協議会の小野松晋一会長(72)。 杉河内地区(28世帯74人)の指定避難所は集落から約6キロ離れており、平野さんは昨年6月、安全に避難するため、地区に近い玖珠町の杉河内小学校を自主避難所として使えるよう町から了解を得たばかりだった。平野さんによると、7月7日の豪雨で住民は一斉に学校に避難したが、「大丈夫」と自宅にとどまろうとした住民を何とか避難させた10分後、土砂崩れが起き、その住民の自宅にも土砂が押し寄せた。崩れたがけは高さ48メートル、幅25メートルにわたっていた。 安寿苑では、2012年の九州北部豪雨の後、避難計画をつくり、警戒レベル3の発令で避難することを習慣化していた。昨年7月6日に大雨警報が出た段階でデイサービスの利用者が約20人いたが、サービスを中止して避難の準備を始め、避難勧告が出るのとほぼ同じタイミングで、70~90代の入所者の男女3人と職員2人で中津江振興局に避難した。7日早朝、施設の裏山が高さ45メートル、幅35メートルにわたって崩れ、施設3棟が全壊・床上浸水した。 平野さんは「当たり前のことをしただけ。災害は身近にあるのでこれからも忘れないように訓練をしていきたい」。小野松さんは「今後も危険な状況だといち早く避難していきたい」と話した。 日田市中心部と中津江村の距離が離れていることから、小野松さんは現場に避難の判断を委ねており、中津江支所長だった中塚能馬さん(51)が入所者とともに避難した。中塚さんは「前日から降りがすごかった。まさか崩落するとは思っていなかったが、教訓になった」。中津江の施設は現在はなく、入所者らは上津江の施設に移っているが、今年8月の長雨でも1週間避難したという。(中島健) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル