スマートフォンを操作しながら車のハンドルを握るドライバーや、ながらスマホによる事故が後を絶たない。事故の遺族、則竹崇智さん(53)は「ながらスマホは故意の殺人行為に近い」と訴える。 「敬太はさ、なんでも一番乗りするのが好きだったでしょ。だから、天国まで一番乗りしちゃったね」 小学4年生だった次男の敬太さん(当時9)が亡くなった日の夜、2歳上の長男が発した言葉が、則竹さんは今も忘れられない。 2016年10月26日午後4時すぎ、敬太さんは愛知県一宮市の自宅近くの横断歩道で、トラックにはねられた。運転していた男は事故の直前まで、スマートフォンゲームの「ポケモンGO」をしていたことが、のちの裁判で認定された。 スマホに目を向けた2,3秒後 敬太さんは当時、長男たちと下校中だった。そこへ、1台のトラックが近づいてきた。当時30代だった運転手の男は、歩道を歩く小学生の集団や、前方に横断歩道があることに気付いていた。走り慣れた道で、そこが通学路だということもわかっていた。 だが、「対向車がいるし、自… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
被爆証言は「無関心な人の心を揺らせる」 伝え続けて通算80冊目
被爆体験の聞き取りを続ける市民団体「長崎の証言の会」が、証言集「証言2023 ナガサキ・ヒロシマの声」を出版した。今回で通算80冊目。原爆に遭った当事者の声を記録する目的で号を重ねてきたが、当時を知る人が少なくなる中、特集でも継承を意識して編集されている。 証言の会は1969年に発足した。 契機はその2年前の67年。厚生省(当時)が発表した原爆白書で「健康、生活の両面において、国民一般と被爆者との間にはいちじるしい格差はない」と結論づけたことに反発し、被爆者の実態を社会に伝えようと活動を開始。証言集を発行してきた。 今号では、原爆に遭った当事… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
病を抱えても…村でカボチャを育てたい 1千キロ先の「戦友」のため
福岡県の中央部に位置し、深い山々に囲まれた東峰村。 その村内に広がる畑で、和田晴輝さん(50)は四つんばいになり、はうように移動していた。 持病で片方の肺は動かず、50メートル歩くと息切れして顔が真っ青になることもある。畑で歩けなくなると、少しでも楽に動けるよう四つんばいになる。 そんな状態でも、和田さんは農作業をやめなかった。 どうしても、育てたいカボチャがあったからだ。 東北の村とのつながり、ぽくぽくとしたカボチャとの出会い 和田さんが暮らす東峰村は2017年、九州北部豪雨に襲われた。記録的な大雨によって各地で土石流が発生。福岡と大分の両県で死者・行方不明者は計42人にのぼり、村でも3人が犠牲になった。 和田さんの自宅も土石流にのまれ、建物の基礎部分まで流された。家の柱は約2キロ先で見つかったが、駐車していた車はいまだに見つかっていない。 被災した東峰村でカボチャを育て始めたものの、持病を抱えた和田さんは「何度も諦めようと思った」と話します。それでも、ともに戦う東北の村への思いが、背中を押しました。 被災者向けの住宅が建設され… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「隔離の島」抜け出し球児が遠征、活動の原点に 惜別・藤崎陸安さん
偏見や差別と闘い続けてきたハンセン病の回復者たち。9月14日、全国の療養所で暮らす入所者でつくる「全国ハンセン病療養所入所者協議会」の事務局長を務めた藤崎陸安さんが脳出血で亡くなった。80歳だった。 青春時代に仲間と「隔離の島」を抜け出す豪胆な人だった。青年期からは、当事者の名誉回復と福祉の増進をめざす運動に身を投じた。 ◇ ハンセン病に関する取材は、暗く重い話が多い。それでも時に、痛快な出来事に巡り合う。 瀬戸内海に浮かぶ岡山県の長島にかつて、全国で唯一、ハンセン病の若者が通える定時制高校「新良田(にいらだ)教室」があった。 ある年、野球部員が島を抜け出して遠征へ出かけた。その大胆不敵なメンバーの一人が藤崎さんだった。 秋田県出身で4人兄弟の末っ子。小学3年の時、ハンセン病と判明。1952年に青森県の療養所に強制隔離された。 59年、新良田教室に入学。軟式野球部に入り、治療を受けながら勉強と部活に励んだ。 戦後、ハンセン病は治療薬ができて「治る病気」になっていたが、島を出るには特別な理由が必要だった。 60年、部員10人が「家族… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「あるかないか言えない」 世界遺産めざす佐渡金山でお蔵入りの名簿
記者コラム「多事奏論」 論説委員・田玉恵美 図書館で奇妙な体験をした。ある資料を閲覧したいと申し出ると、しばらくしてやってきた職員にこう言われた。 「これは、所蔵しているかどうか、お答えしないことになっているんです」 私は新潟県立図書館で、来年の世界文化遺産登録をめざす佐渡金山について調べていた。検索したところ、かつての鉱山会社が提供した「佐渡鉱山史」を所蔵しているとの記述があったのだが……。 説明に出て来た職員は、隣にある県立文書館の副館長だった。この資料があるかないかすら言えないのはなぜか聞くと、「それも言えない」という。 取材すると、佐渡鉱山をめぐっては、ほかにも新潟県で「お蔵入り」になっている資料があった。 「戦時中に佐渡鉱山で働いた朝鮮人労働者の名簿を、県立文書館が持っている」 歴史研究者の竹内康人さんは、研究者仲間から以前そう聞いた。今年4月、同館に閲覧したいと申し出ると、非公開だと断られた。 竹内さんによると、このときの県立文書館の副館長の説明はこうだ。 名簿は、鉱山会社が所蔵していた「半島労務者名簿」。県が「新潟県史」の編纂(へんさん)をしていた最中の1983年に原本を撮影した写真(マイクロフィルム)がある。だが所有者の許可がなく、公開していない――。 どういうことなのか。直接くわしく事情を聴こうと、私が先月あらためて県立文書館に取材すると、竹内さんにはいったん存在を認めたはずの名簿についても副館長が「あるのかないのかお答えしない」という。その理由も言えないそうだ。 私が図書館で見た資料には、「佐渡鉱山史」も、新潟県史を編纂するために同じ鉱山会社から収集した資料として記録されていた。 ならばと、その鉱山会社を1989年に吸収合併した「ゴールデン佐渡」に聞くことにした。現在、観光客などに鉱山を公開している会社だ。 河野雅利社長によると、県立文書館から92年に「鉱山会社から提供を受けた資料について、市民から閲覧希望があった場合に公開してもよいか」という趣旨の照会があった。この年は、県立文書館がオープンした年だった。 その際、ゴールデン佐渡は、「半島労務者名簿」や「佐渡鉱山史」については、原本が今はないので、「一般公開を控えてほしいと県立文書館に回答した」という。 当時、親会社の三菱マテリアルにも報告しながらの決定だったそうだ。 その後、「佐渡鉱山史」は2011年にテレビ番組の撮影中に原本が金庫から見つかった。そのため現在は、佐渡鉱山まで直接やって来る人には、事前に要望があれば見せている。 しかし、「半島労務者名簿」… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
目が見えない小学生の兄弟 「恐竜はいたんだ」と初めて思った日
東京都に住む兄弟、龍碁(りゅうご)さん(10)、隼矢(しゅんや)さん(7)は、生まれつき目が見えない。 母親は、そばにいることを2人が聴覚で感じられるように育ててきた。 トントントンと包丁で食材を切る音がすると、お母さんは台所にいる。ジャーと水を流す音がしたときは、トイレにいる。「音が聞こえれば、近くにいるとわかって安心する」 触覚も大事にした。食卓に上がる食材はなるべく触れさせた。この形の野菜がキャベツ、トマト、キュウリ。そうやって世界を広げてきた。 最近、2人がはまっているのは「電車」だ。 24時間話せる「電車」 好きではない「水族館」 「座席の質感やひじ置きの位… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「日本一」目指す若手シイタケ農家 林業の父が手がけたホダ場で挑戦
父が手を入れ守ってきた山。そこで息子が育てたシイタケが、全国トップクラスの逸品に。 熊本県菊池市の田中欣生(きんせい)さん(36)は昨年、今年と2年続けて全国乾椎茸(しいたけ)品評会で2位に輝いた。県内では6年連続でトップの農林水産大臣賞を受賞しており、目標は全国一だ。「来年こそは」と家族ぐるみで栽培に取り組んでいる。 菊池市の中心部から北東へ約10キロ、斑蛇口(はんじゃく)湖の東側に広がる約40ヘクタールの山林が田中さんのシイタケ栽培場だ。案内されたクヌギ林の地面に、横、縦、斜めに組まれた丸太が並べられていた。シイタケ菌が打ち込まれたホダ木だ。 栄養を多く蓄えるクヌギで作ったホダ木は、7年にわたりシイタケが収穫できる。「父が植樹して、手を入れてきた林です。このクヌギを使えるのがありがたい」と田中さんは話した。 続いて、田中さんは曲がりくねった山道をしばらく登り、中腹へと向かった。 たどり着いた杉林の中では… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
米軍がオスプレイ使用を申請 「救難活動のため」鹿児島県容認
鹿児島県の屋久島沖で米空軍の輸送機CV22オスプレイ(乗員8人)が墜落した事故で、県は2日、米海兵隊からオスプレイ2機が奄美空港(奄美市)を3日まで使うとの届け出があり、受理したと発表した。救難活動などが理由。九州防衛局によると、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)所属のMV22オスプレイ2機が午前8時50分ごろ、同空港に着陸した。 使用届は2日午前1時過ぎに空港事務所に提出された。救難活動と人員輸送を目的に滑走路や誘導路、エプロンを使用する。 県は、民間機の使用に支障がないことなどを確認したうえで使用届を受理。九州防衛局に対し、安全に万全を期すること、県民に事故のリスクが及ばないよう陸上を飛行しないことなどを米軍に要請するよう申し入れた。 塩田康一知事は11月30日、国に対し、事故原因が究明され再発防止策が講じられるまではオスプレイの飛行停止を米軍に要請するよう申し入れ、「捜索救助活動であっても人命救助活動上やむを得ない場合に限るなど、慎重に対応していただきたい」と求めていた。 事故直後でのオスプレイの飛… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「生きる」教育、子どもの癒やしにも 西岡加名恵・京大教授に聞く
大阪市立田島南小学校と、昨年度から一貫校となった市立田島中学校で行われている「生きる」教育。子どもたちの自己肯定感を育み、自分も相手も大切にする方法を学ぶことを目指しています。「生きる」教育は子どもや学校に何をもたらすのか。京都大学教授で教育方法学が専門の西岡加名恵さん(53)に聞きました。(編集委員・大久保真紀) 「生きる」教育は、権利主体としての子どもを育てることを主眼に置いた教育です。子どもの権利を学校づくりの主軸に据えて取り組んでいる学校は、珍しいと思います。 自分や周囲の権利侵害やトラウマ、恋愛の中での支配や依存などリアルな問題を扱いますが、社会問題として捉え直す視点が大切にされています。もちろん、教材化されているのでプライバシーは保護されています。架空であってもリアルなことを議論し、友人がどう考えているかを知り、様々な価値観に触れることができるようにもなっています。 子どもたちの「認識」へアプ… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「二度と来るな」と追われた母校 75年ぶりに同級生と校門くぐる
有料記事 床並浩一 青山祥子2023年12月2日 11時00分 【動画】ハンセン病回復者が75年ぶりに卒業式と母校訪問=床並浩一撮影 ハンセン病患者に対する差別や偏見を理由に地元の小学校への通学が許されず、退学した回復者の男性が、75年ぶりに静岡県御前崎市の母校を訪問した。当時のつらい記憶をたどりながら、卒業生の一人として名誉回復の門をくぐった。 「私の知る限り、母校を訪れ、これほど歓迎されたことがある仲間はいない。温かく迎えてくれた古里を誇りに思う」 川崎市在住の回復者、石山春平さん(87)は10月19日、実際に通っていた小学校が統合された御前崎市立第一小学校に到着。駆けつけた支援者や同級生と足を踏み入れ、喜びをかみしめた。 担任に蹴られ、涙の思い出 石山さんは1936年、旧浜岡町(現御前崎市)に生まれた。47年、小学6年生の夏。校内健診で1人残され、大きな病院で診断書を書いてもらうようにと告げられた。左手の小指が少し曲がり、病の兆候は表れていた。夏休みに、静岡市の病院で診察を受けた。診察室から出てきた父親は、診断書が入った封筒を手にうなだれていた。 2学期が始まり、学校に封筒を提出した。2時間目、職員室から戻ってきた担任は顔色を変え、「もう帰れ。お前は汚い病気になった」と言い放った。曲がった指をさすってくれた優しい先生だった。「僕は元気です!」と答えたが、竹の棒で押されて教室の外へと出された。 翌朝、父親に「今日は休め」と言われた。「何でだ」と聞くと、「お前は人にいえない病気になった」という。呼びに来た近所の下級生に促されて登校すると、自分の机と椅子は燃やされてなくなっていた。「二度と来るな」と担任に突き飛ばされ、激しく蹴られた。理由も分からず、涙が出てきた。それが小学校の最後の思い出となった。 石山さんは当時の学校や教師の対応について、「差別意識が根強かった時代だから先生たちを責められない」と思いやる。 漏らした言葉に支援者奔走 75年ぶりの母校訪問は、今年6月に小学校の卒業証書が贈られたことがきっかけで実現した。 2001年、ハンセン病患者… この記事は有料記事です。残り1088文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 ※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません 【締め切り迫る】紙面ビューアー機能も使えるプレミアムコースが2カ月間無料!お得なキャンペーン中!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル