本格的な「春」の訪れを告げる国天然記念物・岬馬の赤ちゃん「春駒」が今年も宮崎県串間市の都井岬で生まれた。9日午後に監視員が見つけた。 都井御崎牧組合によると、小松ケ丘の頂上近くで母馬に寄り添って乳を飲んでいた。体長約80センチで、黒に近い茶色の「黒鹿毛」。前日に生まれたとみられ、元気に走り回っている。 乳の張った馬が他にもいるといい、担当者は「今後1週間くらいで5、6頭は生まれるのでは」。6月までに20頭ほどの誕生が期待されるという。 都井岬の岬馬は108頭になった。新緑の季節を迎え、多くの馬が草原で草をはむ姿が見られる。(矢鳴秀樹) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
三重の養豚場で豚熱の疑い ワクチン摂取前の8頭死亡
三重県は14日、津市内の養豚場で飼われていた豚で豚熱(CSF)が疑われる事例が確認されたと発表した。国の検査機関に検査を依頼し、同日中に結果が確定する見通し。感染が確定されれば、すぐに防疫作業を実施するという。 県によると、13日に養豚場から県中央家畜保健衛生所に、同じ豚舎で飼育されていたワクチン接種前の子豚8頭の死亡が報告された。8頭のうち、県の検査を実施した4頭がいずれも陽性だった。このほか、生存している子豚3頭からも陽性が確認され、陽性だった7頭分の検体を国に送っているという。 この養豚場の10キロ圏内では、昨年以降、野生イノシシの感染が断続的に確認されていた。県は、小動物などを通じて感染が広がったとみている。国の検査で感染が確定した場合、この養豚場で飼育されている約1万頭の豚が殺処分になる可能性があるという。 県内では、昨年12月に伊賀市内の養豚場で豚熱が確認され、県がワクチン接種などの感染対策を進めていた。(大滝哲彰) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「泣いたのは一度だけ」熊本地震5年、父の木に救われて
2016年4月の熊本地震から5年が経った。多くの人が家を失い、大切な人を亡くした。犠牲になった家族に守られたと感じながら、日々を歩んできた人もいる。熊本県の犠牲者追悼式で14日、遺族の一人は語った。 「私たち家族は、『父が命を守ってくれた』。そう思っています」 14日に熊本県庁で営まれた熊本地震の犠牲者追悼式で、冨岡謙蔵さん(58)=熊本県嘉島町=は遺族代表として祭壇の前に立った。熊本地震で亡くなった父の王将(おうしょう)さん(当時83)の話をした。 「じいちゃん大丈夫ね!」に返事なく…必死に外へ 50年以上前、王将さんが自宅を建てた際、玄関先に植えた2本の木がある。マツとカシ。大人2人で運べるほどだったという木は、今は高さ3・5メートルほどに成長した。その木に、家族は救われたと思っている。 農業や造園業を営む、厳しい父… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
不動のゆるキャラ15歳に 年賀状18万枚、海外訪問も
【動画】ひこにゃん、誕生から15年 彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」が13日、15回目の誕生日を迎えた。愛くるしい姿が人気で、ゆるキャラブームの火付け役となった。彦根への観光にも大きな役割を果たす。今も毎日3回、彦根城などに登場するひこにゃん。15年間の軌跡を振り返る。 誕生したのは2006年。当初は翌07年に開催された「国宝・彦根城築城400年祭」のキャラクターだった。 赤い兜(かぶと)は、彦根藩主の井伊家が武具を赤で統一した「井伊の赤備え」に由来。猫は、江戸の豪徳寺で2代藩主直孝を猫が手招きして雷雨から救ったという「招き猫」の故事にちなむ。 京都タワーのキャラクター「たわわちゃん」を作ったキャラクター作家もへろんさんが考え出した。名前の公募には全国から1167点の応募があり、「ひこにゃん」は28人が考えた。 人気が出たのは06年末。彦根城恒例のすす払いを手伝う姿が、テレビで放映されたのがきっかけだ。市は翌年、さらなる活躍を期待して「特別住民登録」を決定。住所は彦根城のある「彦根市金亀町1番1号」に。ひこにゃん効果で城や博物館の来場者が増えた。 10年には彦根で開かれた第1回ゆるキャラグランプリで1位になり、人気は不動になった。同年、ふるさと納税で「みんなのひこにゃん応援事業」に5千円以上寄付すると会員になれるファンクラブも発足。会員は年々増え、20年度は1300人。寄付額は2700万円だった。 活動場所は彦根にとどまらない。東日本大震災では被災した福島県の避難所を訪れた。市によると、09年に米ハワイの祭りで海外デビューするなど海外も9回訪問。13年にパリで開かれた日本のポップ文化の祭典「ジャパンエキスポ」では、熊本県の「くまモン」と一緒に参加した。 毎年ファンから年賀状やバレンタインデーのプレゼントもたくさん届く。その数は08年以降、年賀状は17万9187通、プレゼントは3393個にのぼる。 誕生日の13日には約200人が駆けつけ、ファンクラブから大きなお祝いのケーキが贈られた。 話をしないひこにゃんの気持ちを、お世話係が代弁した。「ひこにゃんを見守り、導いてくださったすべての方々に感謝します。これからも彦根市を舞台にのーんびり活動し、たくさんの方に笑顔と癒やしをとどけてくれることでしょう」(筒井次郎) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
処理水放出、トップ会談で整った 政治判断までの舞台裏
「処理水の処分は、福島の復興を成し遂げるためには避けて通れない」。海洋放出を決めた13日の関係閣僚会議後、菅義偉首相は記者団に「避けて通れない」との言葉を3回繰り返し、「政治判断」を下した自らの姿勢を強調した。 昨年2月、6年に及ぶ議論を踏まえて、経済産業省の専門家の会議が「海洋放出が現実的」とする提言を公表した。当時の安倍政権は海洋放出の方向性を決めながらも踏み切れずにいたが、菅政権は9月に発足した勢いを駆って、放出の方針を決める調整を始めた。 タンクが満杯になるとされるのは、当時は「2022年夏ごろ」と言われていた。海洋放出に向けた具体的な計画や施設の整備には原子力規制委員会の認可が必要で、官邸幹部らは2年程度を要するとみていた。「ここで判断をしなければ、いずれタンクで保管できなくなる」。首相周辺は当時、繰り返しそう説いていた。首相も周囲に「調整が難しい」としつつも、「やらないといけない」との考えを示していたという。 閣僚のひとり「貧乏くじをひいた」 ところがこの時、政府は一転し… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
海洋放出、東電の賠償に不安 風評被害巡り拒否した例も
東京電力福島第一原発の処理水の海洋放出が2年後にも始まる見通しになった。政府が13日、国内外の懸念を押し切る形で基本方針を決定した。十分な風評被害対策はとれるのか。 政府は基本方針で、「風評影響を生じさせないとの強い決意をもって対策に万全を期す」とする。水産業では生産、加工、流通、消費の段階で対策を徹底し、販路拡大を支援する。観光客の呼び込みにも力を入れる。流通段階の問題解決にも取り組むが、消費者の理解が進むことが必要だ。 政府が打ち出す対策には従来と同じようなものもあり、効果ははっきりしない。具体化まで時間がかかりそうなものもある。 消費者庁の風評に関する意識調査では、放射性物質への不安を理由に福島産食品の購入を「ためらう」人は2021年は8・1%で、13年の19・4%から減った。イメージが回復していただけに、実効性のある対策が課題となる。 「原発事故と『食』」の著書がある筑波大の五十嵐泰正准教授は、「政府のこれまでの取り組みは、科学的な安全性の啓発に重心があった。流通面の課題を解決すると打ち出したのは評価したい。福島産品の販路を守るため、各省庁が連携してほしい」と話す。 風評被害への賠償のあり方も焦点になる。政府は東電に、期間や地域、業種などは限定せずに賠償するよう求めた。損害の立証の負担を被害者に一方的に負わせず、「被害者に寄り添って迅速に対応する」よう指導するという。 だが、賠償が適切になされるの… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ロダンの漫画家がホームレスになって 内田かずひろさん
朝日新聞などに連載された「ロダンのココロ」シリーズで知られるマンガ家の内田かずひろさん(56)が、今年に入って一時ホームレス状態になったことをネット上で公表し、生活拠点を失った心情をつづっている。窓口で申請を受け付けない「水際作戦」ともいえる福祉事務所の対応によって、生活保護を断念する一方で、民間団体のシェルターに入り、創作活動を続けることができた。「運が良かった」と振り返る自身の経験を多くの人に伝えたいという。 新作「ロダンのココロ」 ホームレスになった心情について、朝日新聞で連載していたマンガ「ロダンのココロ」で描いてもらいました。記事の最後に掲載しています。 「とうとうホームレスになってしまった」と題した文章と絵を、内田さんがネットメディアの「note」に発表したのは2月11日だった。取り壊しの予定が決まっていた東京都内のアパートを、昨年末に退去する約束で借りていた。期限が近づいても、児童書「みんなふつうで、みんなへん。」(あかね書房)の出版を控え、その作画に没頭した。「ほかのアパートを借りるお金は無かったが、居候させてくれるという知人がいたので楽観していた」と話す。 「できる仕事をやるんです」 12月末にアパートを退去、1月末まで知人宅に居候した。だが、そこを出て行かなければならなくなると、帰る所を失った。「寝袋を持っていたので公園のベンチで寝たら、寒くてすぐに目が覚めた。恥をしのんで別の友人を頼った」 どうにもならなくなり、2月初… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
電車内の痴漢事件で無罪判決 「犯人取り違えた可能性」
電車内で女性の胸を触ったなどとして東京都迷惑防止条例違反の罪に問われた会社員の40代男性に対し、東京地裁は13日、無罪判決を言い渡した。村山智英裁判官は、警察による犯行再現の不正確さを指摘したうえで、「女性が被害にあったこと自体は信用できるが、犯人を取り違えた可能性がある」と述べた。 男性は2019年11月、都内の私鉄内で女性の胸を触ったとして起訴されたが、無罪を主張していた。 判決は、電車が駅に着いてから男性に声をかけるまで「目を離していない」との女性の公判での証言について、捜査段階でそうした供述はなく「犯人の取り違いの可能性を払拭(ふっしょく)できない」と述べた。 さらに、身動きがとれないほど混雑した車内で女性の証言通りの犯行をする場合、「実際の犯人の身長は被告(の男性)より低い可能性がある」と指摘。警察が犯行状況を再現した写真は2人の身長差を正確に示していないとし、「被告を犯人とするには疑問の余地がある」と結論づけた。(新屋絵理) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
妻を連れて帰ろうと再建急いだ家 いま自分一人
あの日から5年。地震で傷ついた熊本の街の復興は、確かに進んだ。ただ、被災者一人ひとりには、消えない記憶があり、取り戻せない日常があり、次世代に残すべき教訓がある。朝日新聞のアンケートに回答した人たちを訪ねた。 早くうちに連れて帰ってあげたい。その一心で、工事を急いだ住まいだった。なのに今、自分一人だけが住んでいる。 澤田稔さん(85)=益城(ましき)町小谷(おやつ)=の自宅兼店舗は地震で全壊した。今の家は、隣にあった木造倉庫をリフォームしたものだ。倉庫には3部屋を造り、玄関には日本舞踊をする妻セイ子さん(83)がけいこで使った大きな鏡を、居間には衣装や写真を置いてある。離れて住んで1年半になる。 建設会社に勤めていた澤田さんは24歳の頃、散髪に訪れた「理容さわだ」でセイ子さんに出会った。1年後に結婚した。 60年余り前にセイ子さんが開いた店には、理容椅子が二つあった。近所の人がお茶を飲みながら、語らう場所だった。誰にでも話しかける社交的なセイ子さんは、夜は倉庫で日本舞踊も教えた。 2016年4月16日未明、益城町で2回目の震度7を観測した揺れが襲った。梁(はり)の隙間からはって出て、家の外へ逃れた。1階の店舗部分は潰れていた。 地震の前日まで接客していたセイ子さんは、呼びかけに反応しないほど気落ちしていた。公民館などで避難生活を送り、地震から約2カ月で仮設住宅に入居。澤田さんはセイ子さんを元気づけようと、被災して店を閉じる同業の友人から理容椅子をもらい受け、倒壊を免れた倉庫隣のガレージに置いた。仮設住宅から歩いて自宅へ通い、がれきを片付けた。休む時、セイ子さんは理容椅子に腰掛け、新聞を読んだ。 仮設に入って間もなく、セイ子さんは下ろしたお金をどこに置いたか分からなくなった。認知症の症状だった。週3回、デイサービスに通うようになった。「早くうちに帰さなければ」。自宅の再建は諦め、急いで倉庫をリフォームして19年8月に引っ越した。 セイ子さんは毎日のように理容椅子の背もたれを倒し、昼寝をした。その後も症状は進み、車の鍵を隠したり、外へ出て行方が分からなくなったりすることもあった。その年の10月、未明に倉庫の窓から落ちて腕を骨折。車で15分ほどにある町内の特別養護老人ホームに入った。 澤田さんは週に2回は通っていたが、新型コロナウイルスの感染が拡大した昨春以降は2カ月に1回、窓越しの面会だけになった。セイ子さんの反応はあまりない。今年2月、誕生日祝いで面会した時、連れて行った生後5カ月ほどのひ孫の顔を見て、久しぶりに笑った。「子供みっとニコニコすっとですよね。2、3日前に行ったときは私の顔もみらんです」。顔も分からなくなったのかもしれない、と思う。 ガレージには理容椅子を置いたままにしている。「20歳の頃から椅子と毎日向きおうとったけん、座ると安心したんでしょうね」。澤田さんはこの冬に心臓の手術をした。慣れない自炊が不摂生につながったようだ。「どぎゃんかな、あと3年生きるかな」 今でも、地震がなかったらと考える時がある。地震のことは忘れようがない。(渡辺七海) にぎわうレストラン、完済間近のはずが 阿蘇外輪山を望む丘に、週に1、2回、開(ひらき)義民さん(72)は足が向く。熊本地震前はペンションが6軒集まる「メルヘン村」(熊本県南阿蘇村)だった。ここで開さんが家族で営んでいた「イタリアン食堂」は、基礎を残して更地になっている。5年経った今も再建の見通しは立たない。 妻の直美さん(69)と1983年に開いたペンションが始まりだった。福岡の有名ホテルで総料理長も務めた息子が約10年前に戻り、レストランに力を入れると当たった。パスタや牛ほほ肉のワイン煮込み、開さんが築いた釜で焼いたピザ。最大30人ほどが入れる店は連夜、周りのペンションや旅館から来る客でにぎわった。地震直前の売り上げは好調で、ペンションの購入費や改修費はあと4、5年で完済できる見込みだった。 そこで地震に見舞われた。20… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「いまでも自分は被災者」 忘れようがない地震から5年
熊本・大分両県で災害関連死を含めて276人が犠牲になった熊本地震から、14日で5年になる。観測史上初めて震度7の揺れに2度見舞われ、熊本県内の各地で国道や県道が寸断されたが、3月までにすべて復旧した。被災者の生活再建も進みつつあるが、3月時点で150世帯418人が仮住まいを続けている。 2016年4月14日午後9時26分の「前震」と16日午前1時25分の「本震」で、ともに最大震度7を観測。家屋の倒壊など直接的な原因によって熊本県内で50人が犠牲になり、地震後の体調悪化など災害に関連して226人が亡くなった。全半壊または一部損壊した住宅は20万棟を超えた。 地震で崩落した阿蘇大橋(熊本県南阿蘇村)に代わって約600メートル下流に整備された新阿蘇大橋は、3月に開通。大規模な土砂崩れで一部不通になった国道57号と、JR豊肥線は昨年10月までに全面再開するなどインフラ復旧が急ピッチで進んでいる。熊本市方面と阿蘇地域を結ぶ交通網は回復した。 熊本県では、ピークの17年5月に2万255世帯4万7800人だった仮設住宅などの入居者のうち、99%は自宅再建や災害公営住宅(復興住宅)への入居などで住まいを得た。一方、益城(ましき)町で続く地震後の土地区画整理事業などの完了を待つ人が仮住まいを続ける。仮設住宅を出た後の支援も課題になっており、昨年度は復興住宅で2例目となる「孤独死」が確認された。 インフラ復旧は進んだけど… 発生から5年を前に、朝日新聞は過去にアンケートをした被災者に追跡調査をした。回答した74人のうち街や地域の復興が進んだと感じる人が約9割に上った一方、半数の人が「いまでも自分は被災者だと感じる時がある」と答えた。回答者のうち49人は自宅が全壊か大規模半壊。再建した家を含め自宅に住んでいる人は55人(74・3%)で、19年のアンケート当時の54%より割合が増えた。 街や地域の復興は進んだと思うか尋ねたところ、「思う」「ある程度思う」を合わせて66人(89・2%)。交通インフラの復旧や住宅再建などが具体例に挙がった。「あまり思わない」「思わない」は計8人(10・8%)だった。 今でも被災者だと感じる時があるかの質問に「ある」と答えたのは37人(50%)、「ない」は35人(47・3%)。「ある」の理由としては「『もうおしまいだ』と感じた本震は忘れようがない」「地震前の場所に自宅を再建できれば復興を感じられる」などの回答があった。地震への関心が薄れ、風化しつつあると思うかとの問いには47人(63・5%)が「そう思う」と答えた。(伊藤秀樹、奥正光) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル