All Nippon NewsNetwork(ANN) 12日未明に東京・府中市の住宅で火事があり、この家に住む83歳の女性が死亡しました。 警視庁などによりますと、午前2時すぎ、府中市北山町の木造平屋建ての住宅から出火しました。東京消防庁のポンプ車など37台が出動して消火活動にあたりましたが、火元の住宅が全焼するなど、合わせて3棟、約120平方メートルを焼き、約1時間後に消し止められました。火元の住宅からはこの家に住む平林久枝さんが消防隊によって救助されましたが、その場で死亡が確認されました。他に40代の男性が喉にやけどをするなどして手当てを受けています。警視庁は実況見分を行い、出火原因について調べることにしています。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
松江の高校校長「生徒に落ち度はない」 集団感染で謝罪
松江市は10日深夜、新たに3人の新型コロナウイルス感染が確認されたと発表した。クラスターが発生した立正大淞南高校(松江市大庭町)の生徒2人と、すでに感染が確認されている生徒の同居人1人。重症者はいないという。同校の生徒、教職員の感染者は計91人になった。 松江市は厚生労働省のクラスター対策班の派遣を要請し、感染拡大の原因を調べる。県内の感染者は計126人。 市によると、新たに感染が確認された生徒はサッカー部と野球部の部員各1人。サッカー部員は9日のPCR検査では陰性だったが、37度台の発熱があり、10日の再検査で陽性を確認した。同校の生徒309人と教職員38人のうち、県外に帰省している生徒17人を除く計330人分の検体を採取し検査を進めている。まだ生徒96人の検査結果が出ていない。 サッカー部を中心にクラスター(感染者集団)が発生した立正大淞南高校が11日未明、松江市役所で記者会見した。北村直樹校長は「大きな集団感染になったことをおわび申し上げる。生徒に落ち度はなく、学校の感染対策の不備に起因する」と陳謝した。 同校では10日までに、生徒89人の感染が確認されているが、そのうち82人はサッカー部の同じ寮に住む生徒だ。この寮には約120人が入居しており約3分の2の生徒に感染が広まった。 同校の説明によると、寮内では共同風呂で食堂も1カ所。県内で感染者が確認された4月以降、可能な限り分散して利用することや換気の実施、食事中の対面を避けることなどの感染対策を指導したが、上川慎二教頭は会見で「(風呂・食堂の)具体的な人数制限はしていなかった」とした。 また、7月23日~8月7日にかけて実施した大阪、鳥取、香川への県外遠征では、マイクロバスで移動し、不特定多数が利用するサービスエリアでは降車しなかったという。20~25人ほどの部員が参加しており、大阪では宿泊し、鳥取、香川は日帰りだった。遠征後は、部員の検温結果を1週間記録していたという。上川教頭は「検証を重ねて、何とか大丈夫と判断した」と説明する。 また、感染が確認された部員のうち、計19人が6日に発熱や頭痛などの症状が出ていたが、校医から保健所に連絡が入ったのは、初めて感染が確認された生徒が5日の発熱後に、味覚・嗅覚(きゅうかく)異常を訴えた7日。上川教頭は「感覚的には体調不良が多いと認識していたが、19人もいるとは6日時点で把握していなかった。熱中症の可能性もあり判断が難しかった」と説明した。(浪間新太、長田豊) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
香川の県立校、部活遠征を禁止 松江の高校クラスターで
香川県教育委員会は11日、県立学校の部活動の合宿や県外遠征を当面の間、禁止すると発表した。県立高校のサッカー部が、新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生した松江市の高校と練習試合をしていたことなどを受けた措置という。 県教委は8月1日から部活動の合宿や県外遠征を認めていたが、11日、各学校に禁止の方針を通知した。県内の学校との練習試合や公式団体の主催する大会への参加は引き続き認める。 県内では4県立高校が2~7日、クラスターの発生した立正大淞南高校と高松市やさぬき市で練習試合をしていたことが判明。参加者約150人は全員が自宅待機し、県はPCR検査を進めている。(木下広大) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
琥珀の中の最小級の鳥、実はトカゲ?研究チーム論文撤回
約1億年前の琥珀(こはく)から見つかった「世界最小級の鳥化石」について、中国と米国、カナダの研究チームが論文を取り下げた。今年3月に科学誌ネイチャーで発表したあと、トカゲやヘビの仲間ではないかと発表を疑問視する指摘があった。チームは指摘の一部に反論しているが、「系統的な位置付けに疑いが生じた」ことを理由に取り下げることにしたという。 化石は、白亜紀の琥珀に入っていたくちばしのある小動物の頭部で、チームは学名を「目と歯の鳥」という意味の「オクルデンタビス・カウングラアエ」と名付けた。ところが、発表後まもなく、同じ化石のCTスキャンデータを解析した中国と豪州のチームが、目の周囲の骨や歯の特徴から、トカゲやヘビの仲間である可能性が高いと異議を唱えた。化石が本当に鳥なのか、議論になっていた。 現在、同種の動物とされる別の標本も調べられており、新たな系統的位置を示す複数の論文が今後発表される見通しだ。なお、学名については、早く発表されたものが優先されるため、このまま有効となるとみられる。(米山正寛) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
知らないと怖い「離岸流」の特性と対処法(ウェザーニュース)
今年は海水浴場が閉鎖されている所も多くありますが、この暑い時期になると海へ遊びに出かけたくなる方も多いのではないでしょうか。 海水浴は子どもたちにとって楽しいイベントである反面、2019年に全国で発生した水難事故の発生件数は1298件、水難者数は1538人。そのうち、およそ半数の近くの695人が亡くなるか、行方不明となっています(警察庁調べ)。他人事とは思えない数字ですよね。 みなさんは、海で泳いでいて、知らぬ間に沖に流されてしまった経験はありませんか。これは「離岸流」と呼ばれる、目では見えにくい潮の流れが原因なんです。 気まぐれに発生する離岸流 離岸流とは、海岸に打ち寄せた波が沖に戻ろうとする時に発生する強い流れのこと。 波は沖から海岸へ打ち寄せますが、海水はどんどん岸に貯まるので、どこかから沖に戻ろうとします。この時、岸から沖の方へ向かって一方的に流れる速い流れのことを離岸流(リップカレント)と呼びます。 ・速さ 最大で1秒間に2mほど。人の早歩きと同じ位の速さですが、水中だと速く感じられ水泳選手でも逆らっては泳げないとされています。 ・長さ 通常数10m~数100m程度。岸から離れると流速は弱まります。 ・幅は、10~30m程度とあまり広くはありません。 ・発生期間 一旦発生した後、1ケ月近く同じ場所で発生し続けることもある一方、発生から2時間後には位置を変えることもあります。 離岸流に流されると、知らず知らずのうちに沖まで流されてしまうことがあるので、注意が必要です。 では、実際に流されてしまったら、どうしたらよいのでしょうか。 流されたら岸と平行に泳げ! 【1】慌てず落ち着く。可能であれば、まわりの人に流されていることを知らせる。 【2】無理に岸に戻ろうとせず、岸と平行に泳ぐ 【3】沖向きの流れを感じなくなったら、岸に向かって泳ぐ。泳ぎに自信のない方は、無理に泳ごうとせず浮くことに専念する。 流されてしまうと岸に向かって泳ごうとしてしまいますが、離岸流の場合は戻る事は困難で、かつ体力を消耗してしまいます。 まずは落ち着いて、岸と平行に泳ぐか、難しい場合は浮くことに専念して周りに助けを求めるようにしてください。 離岸流は、決して珍しいものではなく、毎年どこにでも発生する流れです。日本の海水浴場で人が溺れる事故のうち、半数以上が離岸流によるものだといいます。離岸流の特性を正しく理解し、安全な海水浴をお楽しみください。 ウェザーニュース Source : 国内 – Yahoo!ニュース
父亡くした爆撃、終戦わずか4日前…「悲しみは消えない」79歳の訴え(西日本新聞)
終戦のわずか4日前に爆撃を受けた「鳥栖空襲」から75年を迎えた11日、佐賀県鳥栖市のJR鳥栖駅近くにある頌魂碑(しょうこんひ)前で犠牲者を追悼する慰霊祭が営まれた。幼少期に空襲を体験し、国鉄職員だった父を亡くした原武宏康さん(79)=同市弥生が丘=は毎年参列。過去には遺族の高齢化などで中止する話もあったが、「空襲を忘れないために、慰霊祭は続けてほしい」と訴えている。 【写真】鳥栖空襲による穴が残る長福寺のれんが塀 宏康さんは、4歳の時に空襲に遭った。鳥栖電力区工手長だった父の鳥雄(とりお)さんと母のミサヨさん、兄と妹2人の6人家族。駅近くの鉄道官舎で暮らしていた。 「あの日は暑い一日だった」。宏康さんは朝から兄や友人と近所の防火用水で水遊びに興じていた。父はすでに仕事に出ていたという。午前10時半前、空襲警報が鳴り響いた。急いで自宅に戻り、母や兄妹と官舎の防空壕(ごう)に駆け込んだ。3波にわたる空爆は数十分間続き、民家や駅の詰所を焼き払った。米軍機が去り、官舎に戻ると「屋根が穴だらけでびっくりした」。 その日の夕方、電力区の防空壕で生き埋めになり、力尽きた鳥雄さんが発見された。遺体は壕の入り口付近にあったという。その奥から学徒動員の女子生徒も発見された。「父は最後に避難し、壕の中で点呼を取っていたと聞く。責任感が強い人だったのだろう」。空襲の前日には父と一緒に風呂に入った。「優しくて家族思いの人だった」。あれから75年。当時の記憶は徐々に薄れてきたが、父の姿を忘れたことはない。 11日午前10時半、雨が降りしきる中、同市藤木町の頌魂碑前には遺族や鉄道職員ら約20人が参列した。慰霊祭を主催するJR九州鳥栖電力区の原博文区長(44)は「今年は新型コロナの影響もあり、開催すべきか迷ったが、遺族の苦労などを若い職員らに伝えるのが使命だと感じて決行した。開催してよかった」とあいさつし、来年以降も続ける意向を示した。 碑には、鳥雄さんを含む電力区職員7人と、動員学徒6人の計13人の名前が刻まれている。慰霊祭で手を合わせた宏康さんはこう語った。「傷ついた側の恨みや悲しみは、いつまでも消えない。だから戦争は絶対にしてはいけない」 (星野楽) 鳥栖空襲 1945年8月11日午前10時半ごろから同11時前後にかけて、鉄道施設や笠井倉庫(現・鳥栖倉庫)、日清製粉鳥栖工場などを襲った米軍による爆撃。鳥栖市によると、空襲は沖縄の基地から飛び立った2部隊によるもので、最初は攻撃機32機が襲来。その後、爆撃機48機が爆弾を投下した。当時から鉄道輸送の要地で、軍需関連施設が集中していたことが、攻撃を受けた要因と考えられている。犠牲者数は少なくとも119人、民家の全壊36戸、被災者は約3200人に及んだとされる。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
「取り消す決断を」千代田区長 議会の解散通知撤回(テレビ朝日系(ANN))
All Nippon NewsNetwork(ANN) 区議会と対立し、議会の解散を通知していた東京・千代田区の石川雅己区長が解散の通知を取り消したことを明らかにしました。 千代田区・石川雅己区長:「解散通知をしたことを本日をもって取り消す決断を致しました」 石川区長は一般販売されていないマンションを家族と共同購入した問題を巡る区議会との対立で「事実上の不信任を受けた」として議会の解散を議長に通知していました。しかし、区議会が解散の執行停止を申し立て、東京地裁がこれを認めたことを受けて、区長は11日に解散を取り消す通知を議長に提出しました。これに対して、区議会側は区民や議会に謝罪することなどを区長に求める申し入れ書を提出しています。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
「最悪のシナリオも覚悟」緊急放流、寸前で回避 球磨川の市房ダム(西日本新聞)
熊本県南部を襲った7月4日の豪雨で、球磨川の上流にある県営市房ダム(水上村)は「緊急放流」を寸前で回避した。同日未明、ダムの予測システムは受容の限界の流入量を予想しており、塚本貴光所長は「最悪のシナリオも覚悟した」と明かす。一方、ダム下流の人吉市や周辺に広がった浸水被害は、流域全体の治水の限界も示した。 【上空ルポ】救助待つ人、茶褐色の街並み…記者はヘリの上で言葉を失った 豪雨前日の7月3日夕、塚本所長は、ダムの予測システムが計算した4日朝の流入量を見て「この流入量なら大丈夫」と安心していた。気象庁の24時間予想雨量は200ミリ、予測システムが出した流入量はダムの許容範囲の毎秒700~800トンだった。 だが、事態は未明に急変。気象庁の予想は外れ、24時間雨量は倍の400ミリを超えた。線状降水帯特有の長く激しい雨が、ダムへの流入予測を刻々と押し上げていった。 ダムの流入予測は、4日午前1時時点で「午前4時に毎秒900トン」、午前4時時点には「午前6時に毎秒1300トン」。毎秒1300トンは、同ダムが想定する流入量の最大値。緊急放流が現実味を帯びた。 貯水量が限界に達した場合、流入量と放流量を同量にしなければいずれ越流し、ダム決壊の恐れすらある。一方、緊急放流で毎秒1300トンを放流すれば「下流の水位は人吉市付近でさらに20~30センチ上がっていた可能性がある」という。 ダム関係者は午前4時、「緊急放流」に向けた協議を開始。同40分、流域の市町村長に電話で「時間は分かりませんが防災操作(緊急放流)に入る可能性がある」と伝達した。気象庁が県南部に大雨特別警報を出す10分前だった。 午前5時時点の流入予測も「同6時に毎秒1300トン」。ダムは同6時半、緊急放流の開始時刻を「午前8時半」と発表した。だが塚本所長は、ある決意をしていた。「緊急放流の目安となる貯水位を超えても、限界までため込む」 流入量を見極めながら午前7時半、緊急放流の開始を「同9時半」に先延ばした。その10分後、流入量は同ダムの過去最大となる毎秒1235トンに達した。幸い、同8時ごろには大雨はピークを越え、同45分に緊急放流の「見合わせ」を発表、同10時半には「行わない」と発表した。 最大貯水位は、午前10時50分の標高280・6メートル。緊急放流の目安となる貯水位まで残り10センチだったとはいえ、既に危機が去った3時間後。河川の水位を上げないよう、ためられるだけためた結果だった。 判断の一つのよりどころになったのが2018年に導入した「予備放流」。事前に利水分を放流、190万トンの洪水調節容量を余分に確保していたことが奏功した。塚本所長は「予備放流なしで大雨がさらに1時間降り続いていたら、緊急放流は避けられなかったかもしれない」と振り返る。 人吉市に流れ込む河川の流域面積のうち、市房ダムの集水面積は約14%にすぎず、今回の豪雨災害はダム単体による治水の限界も見せつけた。約47%を占める球磨川最大の支流・川辺川と、約39%の球磨川本流の治水をどうするか。08年、川辺川ダム建設計画が白紙となって以来、議論の答えはまだ出ていない。 (古川努) Source : 国内 – Yahoo!ニュース
やむなく退職も…不妊治療と仕事、両立の難しさ 「タイムリミットある」(西日本新聞)
晩婚化などを背景に、働きながら不妊治療を受ける女性をどう支えるかが課題となっている。不妊治療は、通院予定の立てにくさや投薬・注射による体の負担から、仕事との両立の難しさが指摘されている。治療に専念するため仕事を辞める人もおり、こうした「不妊退職」が全国2万4千人近くに上るという試算もある。企業には新たな支援制度を導入する動きも広がっている。 【画像】妊娠左右する遺伝子発見 不妊治療への応用期待 「仕事を辞めるか、治療をやめるか。何度も悩みました」。訪問介護の仕事をしながら約10年間、不妊治療を続けた福岡県那珂川市の枝村京子さん(49)が打ち明ける。 枝村さんは28歳のころ、子宮内膜が妊娠に適した状態となりにくい「黄体機能不全」と診断され、その後に流産を繰り返しやすくなる「抗リン脂質抗体症候群」の診断も受けた。以来、仕事の傍ら月5回ほどクリニックに通い、ホルモン注射や投薬治療を続けた。 仕事はシフト制で、勤務日と通院日を調整することができた。上司には不妊治療のことを伝えており、一定の理解も得ていた。それでも卵胞の発育や排卵状況によって、医師から急に「明日、来てください」と言われることがあった。終業後、閉院間際に駆け込んだり、シフトを交代できず諦めたりしたという。 「来院できないと、それまでの1カ月の治療が無駄になる。仕事は大事。でも、不妊治療にはタイムリミットがある」 子宮の検査のため、1週間の入院が必要なこともあり、一部の人に「ずるい」と非難されたこともあるという。負担を掛けた埋め合わせで、土日や夜間の勤務を自ら希望した。 30代半ばで仕事がフルタイムになり、義父の看病も重なったため、不妊治療を中断することが増えた。「治療をやめる踏ん切りも付かない。心のどこかで、あきらめるきっかけを待っていました」。40歳を前に内科疾患を抱え、不妊治療を断念。それからほどなく、妊娠したという。 枝村さんは「本当は仕事のキャリアも積みたいし、休みたくて休むわけではない。治療は金銭的にも、体力的にも、精神的にもきつい。そこまでしても、子どもが欲しいと理解してほしかった」と振り返る。 Source : 国内 – Yahoo!ニュース
「敵機のゐるところで、パッと光が出た」14歳がつづった戦争の日常(西日本新聞)
福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記 七月二十五日(水)晴後曇 作業は運搬。 十二時頃、ちやうど辨當(べんとう)を三口ぐらい食べた時、空襲警報が出たので、場外待避をした。 バスで歸(かえ)らず歩いて歸った。 三時十分警戒警報 十二時空襲警報 七月二十六日(木) 九時一〇分出勤。作業は加工班(班長染川)と共に事務所裏の紙袋をおきかへて、下にうづまってゐる軸受(直徑(ちょっけい)二糎(センチ)―四糎)をとり出す作業。袋についてゐる粉のため、大いによごれた。空氣(くうき)も粉でわるく、鼻がいたかった。みんな体中眞白(まっしろ)になった。だいたい午後までかゝると思はれてゐた作業を午前中にしてしまったので、晝(ぴる)前で作業をやめて、その後○時二十分より隣組の編成があり、それから、すぐ歸(かえ)った。 父宿直のため、自轉車(じてんしゃ)でかへる。五銭で空気入れ。 今日の作業中、軸受が足に落ちて來(き)たのが少し痛んだので、ヨードチンキをつけた。 ○時半空襲警報 十五時三十五分空襲警報 七月二十七日(金)曇 今朝はB29がてっきり久留米にくるものと思ひこんで、びっくりした。ラヂオは「久留米嚴戒(げんかい)を要す」と三回位いったし、B29は單機(たんき)づゝで何回も上空を通過するし、照明彈(だん)は二発久留米の東の方に落ちるのがみとめられたし、實際(じっさい)びっくりした。久留米に必ず來(く)ると思ったので、大急ぎで自轉車(じてんしゃ)を松本さんへあづけ、ラヂオも外して國武(くにたけ)さんの防空壕へ入れたが、空襲はなかったので、ほっかりした。道から南の空を見たら、淡く紅に空がそまってゐた。大牟田の火災もひどいらしいが、六・二〇の福岡よりは、ずっとおとってゐる。 自轉車にて登校す。家を出る時は、だるくてたまらなかった。晝辨當(ひるべんとう)は半分しか食べなかった。腹が少し痛む。 作業はロールの方が仕事はなかったので、ロールの建物のむかひの建物の軒下の石炭をバケツに入れる作業をした。加硫(加工)班といっしょに三十分交代で。途中、場外待避を一度した。今日は山本君は缺席(けっせき)した。 二十時半頃、警報も出ずに、大型一機が來(き)て、久留米の上をとほった。そして敵機のゐるところと思はれるところで、パッと光が出た。ちやうど敵機を探してゐた僕は、眼がくらんでしまった。父はその時丁度(ちょうど)道を通ってゐて、上を見てゐたら、パッと光ったので、ヤラレタと思って、電柱にしがみついたさうである。それから二十分位して、又(また)大型機がきて通過した。高射砲をうった。 今朝のB29を附近(ふきん)に二三機撃墜したとのこと。 ○時一分空襲警報 十二時二十分空襲警報 十四時十五分空襲警報 二十時半警戒警報 二十時五十分警戒警報 【注釈】▽高射砲…1500~7千メートルの高度で侵入する敵機を迎撃する防空砲火。1万メートルの高度を保てるB29に対しては無防備に等しかった ▽パッと光った…「久留米が燃えた日」(古賀正浩著)によると「アメリカが久留米空襲のために航空写真を撮っていったのだろう」とうわさされたという ※福岡県久留米市出身の竹村逸彦さん(89)が14歳だった1945年に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しています Source : 国内 – Yahoo!ニュース