太平洋戦争の体験者が減る中、あの経験をどう語り継いでいくのか。原爆被害を正面から見つめた漫画「はだしのゲン」を講談で語っている講談師の神田香織さんに話を聞きました。 ◇ 原爆被害を正面から見つめた中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」を、講談に仕立てて37年間語り続けています。 39年前、前座から二ツ目に昇進したころ、サイパンでバンザイクリフを見て戦争の惨状に鳥肌が立ち、戦争を語りたいと思いました。その後、取材をかねて広島の原爆資料館を訪れた際、売店にあった「はだしのゲン」を全巻買って再読しました。そこに描かれたエネルギーに改めて圧倒されたのです。 原爆被害や戦争をつづった本や映像はたくさんありますが、講談で「語る」ことの意味は何か。それは固まってしまった歴史に命を吹き込むこと。生身の私が語勢を込めて歴史を語れば、聞く方の眼前に今まさにそれが起きていることとして受けとめてもらえるのではないか。やけどで皮膚が大きくむけて垂れ下がる、腹から出た腸を引きずって歩く。そういう現場の目撃者になってほしいのです。 講談でやるにあたり、被爆者… この記事は有料記事です。残り787文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「火の高さが2倍」「燃えた芯が飛ぶ」 お盆のロウソクの注意点は
コロナ禍があけて初めて迎える今年のお盆。仏壇やお墓参りでロウソクをともす機会が増えるこの時期、ロウソクを立てる燭台(しょくだい)に水気が残っていたり、短いロウソクを継ぎ足して使ったりすると、「火災になるケースがある」と消防関係者が注意を呼びかけている。 大阪府枚方市の一般住宅の仏壇付近で、火災が発生した。枚方寝屋川消防組合の隊員が駆けつけると、仏壇から20~30センチほど離れた障子が燃えていた。2013年2月のことだ。 火元は、仏壇に置かれたロウソクしか考えられなかった。 「燭台はいつもどうしていますか」(隊員) 「洗って乾かしてから使っています」(住民) ロウソクの芯が飛ぶ 燭台を消防本部に持ち帰って調べてみると、ロウソクを突き立てる金属部分の根元がさびていて、その付近に水分が残っていることがわかった。 隊員らは約600回、燭台に… この記事は有料記事です。残り547文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「役員のなり手が…」高齢化や賃貸増で、広がる理事会なしマンション
分譲マンションで住民が高齢化したり、賃貸に出す人が多くなったりしたことで、管理組合の理事会役員のなり手が確保できないケースが増えています。そこで、理事会に代わってマンション管理会社が維持管理の中心を担う「第三者管理者方式」という仕組みが広がっています。現状や課題を取材しました。 「これから本当に管理していけるのだろうか」。東京都内の築30年ほどの分譲マンションで理事長を務める70代男性は困り顔だ。理事会役員のなり手がいないからだ。理事は輪番制だが断られることが多く、最近定員を4人から3人に減らしたという。 約50戸あるうち、30戸ほどは所有者が賃貸に出している。自ら住んでいる所有者も、主に50~60代の現役世代で仕事が忙しく、管理への関心は薄い。理事長は「修繕積立金と管理費さえ払っておけばいい、と(理事会のことは)ほったらかしだ」ともらす。 賃貸増えれば継続困難…悩む理事長 昨秋、設備の保守点検などを… この記事は有料記事です。残り1124文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
旧ソ連軍侵攻、樺太「九人の乙女」の悲劇 減りゆく証言者
終戦直後、日本領だった南樺太(現サハリン南部)へ旧ソ連軍が侵攻し、自ら命を絶った「九人の乙女」。歴史の教訓を胸に刻む平和祈念祭が、今年も乙女たちの命日となる20日、北海道稚内(わっかない)市で営まれる。2年後の戦後80年を待たずに、悲劇を語り継いできた証言者が次々と世を去っている。 1945(昭和20)年8月20日、南樺太西岸の真岡(まおか、現ホルムスク)にあった真岡郵便局の電話交換手の女性たち「九人の乙女」が、ソ連兵による陵辱を恐れて、青酸カリなどを用いて自決した。 「乙女」たちと同じ職場だった栗山知ゑ子さんは昨年8月30日、94歳で亡くなった。北海道和寒(わっさむ)町から約210キロ近い道のりを毎年のように平和祈念祭に駆けつけ、元同僚たちの遺影が並ぶ祭壇に手を合わせてきた。コロナ禍で縮小開催となった20年以降もマスクをして参列したが、昨年は欠席し、体調が心配されていた。 長男敏秀さん(71)によると、栗山さんは昨年初めに膵臓(すいぞう)がんとわかり入院。いったん退院したが、自宅で腰を骨折して再入院し、転院先で息を引き取った。「最初はちょっとした発熱だったんです。昨年も平和祈念祭に行きたかったろうが病院のベッドの上。面会も制限され、思いを聞くことはできなかった」と敏秀さん。 栗山さんは28(昭和3)年4月11日、南樺太の真岡に近い漁師の家に生まれた。小学生の時に父を亡くし、再婚した母親と真岡に移り住んだ。8人きょうだいの次女で、家計を助けるため、16歳で真岡郵便局の電話交換手になった。44年、終戦の前年だった。 双方の電話回線を手作業でつ… この記事は有料記事です。残り1158文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
台風7号、14~15日に大雨の恐れ 新幹線は計画運休の可能性も
2023年8月12日 13時50分 非常に強い台風7号は12日午前、日本の南をゆっくりと北西に進み、15日ごろには強い勢力を保ったまま本州や四国付近にかなり接近する。気象庁によると、台風の接近に伴い、太平洋側を中心に14~15日にかけて大雨になる恐れがある。 同庁によると、台風7号は12日午前9時時点で小笠原諸島・父島の北にあり、暴風域を伴ったまま北上を続けている。中心気圧は950ヘクトパスカルで、中心付近の最大風速は45メートル。14日以降、太平洋側を中心に大雨となり、進路によっては警報級の大雨になる可能性がある。 14日朝までの24時間の予想雨量は多い所で、関東甲信と伊豆諸島、東海で50~100ミリ。その後の24時間では東海200~300ミリ、近畿100~200ミリ、四国100~150ミリ、関東甲信と伊豆諸島で50~100ミリの予想となっている。 JR東海は12日、台風7号の接近に伴う東海道新幹線の計画運休について、13日は実施しないと発表した。14~16日は計画運休や長時間にわたる運転見合わせなどの可能性があるとしている。 管内の在来線も14日午前までは計画運休をしないが、14日午後以降は関西線、紀勢線、参宮線、名松線で計画運休をする予定だとしている。 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
一人、また一人といなくなった友 旗手を務めた学徒兵が感じたこわさ
「自分たちは、捨て石の世代だった」 仙台市太白区の老人ホームで暮らす川島東(のぼる)さん(99)は、青春時代をそう振り返る。 夢を抱いて入った大学生活は、戦争一色に塗り込められ、友たちの多くが卒業証書を手にすることなく、戦地で命を落とした。 川島さんが語る。 東京が初めて空襲に襲われたのが、1942年4月です。それが境でしたね。 まちは戦時体制に染まってゆく。 私は政治・経済を学ぼうと、川崎市の実家から東京・神田の専修大学に通っていました。 講義に代わり、軍事教練が増えてゆく。スポーツは球技がなくなり、射撃や柔道や剣道といった体育訓練が強化された。学生食堂のライスカレーは、雑炊に変わりました。 そして43年、文科系学生の徴兵猶予が停止された。 学徒出陣です。 その年の10月21日、明治神宮外苑競技場に関東一円の大学生数万人が集められ、文部省主催の出陣学徒壮行会が開かれました。 土砂降りの中、「海ゆかば」の大合唱 朝はまだ小雨でした… この記事は有料記事です。残り1282文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
焼け跡に1人、野草も食べた12歳 戦争孤児だった海老名香葉子さん
終戦後の東京。孤児となった当時12歳の少女が、空襲で焼け落ちた自宅の跡地にひとりぼっちで座り込んでいた。エッセイストの海老名香葉子さん(89)だ。 現在の東京都墨田区にあった生家は、江戸時代から続く釣りざお職人の家だった。1945年3月10日の東京大空襲で、父母と2人の兄、弟、祖母の6人の命が奪われた。 焼け残ったのは入り口の石段だけだった。焼け跡を掘ると、家族の茶わんや布団の切れ端など、懐かしい品が出てきた。 海老名さんは戦後、都内のおば夫婦のところに身を寄せていた。 住まいは周囲をトタンで囲ったバラック小屋だった。 近くの井戸から水を運び、水がめにためておくのが海老名さんの日課になった。 極度の窮乏のなかで、やさしかったはずのおばの態度は一変していた。 ときには怒鳴られ、モノを投げつけられた。「お前なんか死んでくれればよかった」と罵声を浴びたことも、一度や二度ではなかった。 「自分は『余計な子』なんだから」と心を殺し、ひたすら耐えた。 はやく父ちゃん母ちゃんのいるところに行きたい――。時折そんな悲痛な思いに突き動かされ、自宅の焼け跡に向かった。 「私の家、私の家」とつぶやきながら、歩いた。 「父ちゃん、母ちゃん、お空の上にいるなら、私も一緒に連れていって」 心の中で叫んで、焼け跡で泣いた。死んでもここを離れたくないと思った。 空腹でふらふらになると、ハコベやアカザなどの野草もつんで、食べた。 でこぼこの鍋を拾って、壊れた水道管からもれていた水をいれた。煙が立っている場所に行って「火をください」と頼み、木ぎれに火をつけてお湯をわかした。そこにヤミ市で買ったふすま粉をいれ、野草を煮た。味はなにもなかった。 冷え込みが厳しかったある日のことだ。自宅の石段に座って凍えていた。 「こんなところにいたら凍え死んじゃうよ」 復員兵らしき男性が声をかけ… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
しまなみ海道で乗用車が正面衝突、2人重傷 周辺では渋滞も発生
2023年8月12日 14時19分 愛媛県警高速道路交通警察隊によると、12日午前10時半ごろ、同県今治市上浦町の西瀬戸自動車道(しまなみ海道)上り線の大三島インターチェンジ(IC)近くで、上り線を広島県側に走っていた乗用車が対向車線にはみ出し、乗用車と正面衝突した。 同隊によると、6人がけがをして今治市内の病院に運ばれ、うち高齢の女性2人が重傷。命に別条はないという。 この事故の影響で、上り線の伯方島―大三島IC間が4時間近く通行止めとなり、連休ということもあって激しい渋滞が発生した。 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
亡き父の墓標前に母とビデオ通話 日航事故遺族がリモートで慰霊登山
吉村駿2023年8月12日 21時00分 520人が亡くなった日航機事故から38年がたった12日、多くの遺族が現場となった御巣鷹の尾根へ登るなか、リモートで慰霊登山をする人もいた。 東京都中央区の会社員山本昌由さん(43)は、事故で父の謙二さん(当時49)を亡くした。この日は、スマートフォンのビデオ通話機能を使って、母の啓子さん(78)と長女の春乃さん(8)らに父の墓標を見せた。「木がいっぱい生い茂る山の奥です。ここからみんなのことをずっと見てくれているよ」 大阪府八尾市に住む啓子さんは足が悪く、6年前を最後に慰霊登山に参加できていない。今年、尾根では衛星通信環境が整い電波が入るようになったため、現場に来なくても父の墓標の様子を見せることができた。 コロナ禍のため、山本さん自身も4年ぶりに尾根に登った。「『38年が過ぎても父のことは忘れていないよ』と伝えることができて良かった」。スマホの画面上で母はうれしそうな表情だったといい、「母にもこの日に現場を見せられて良かった。今後遺族の高齢化がさらに進むので、リモートで慰霊登山ができるのはありがたい」と話した。(吉村駿) 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「負の遺産は伝承しないと」 87歳で尾根へ登り続ける柳田邦男さん
ノンフィクション作家の柳田邦男さん(87)は毎年、1985年に日航機が墜落した御巣鷹の尾根に登り続けている。「現場に来ることは自分の習慣になっている。8月12日の慰霊登山も体に染みついている」。妻で絵本作家のいせひでこさん(74)も、この事故の遺族についての絵本を作っている。夫婦で事故を見つめてきた2人はこの日、杖を片手に1歩1歩登った。 NHK記者時代から命や安全をテーマに取材を続けてきた柳田さん。JALの安全について考える社外機関で座長を務めるなど、この事故とは深く長くつながってきた。 東京都在住だが、9日には広島市で講演し、11日に上野村へ入った。12日、登山道では進むたびに「柳田先生、こんにちは」と遺族に声をかけられた。「送ってくれた新タマネギおいしかったよ。ありがとう」と返事する。カメラで遺族の写真を撮ったり、連絡先を知らない人にはノートに名前や電話番号を書き残したりしてもらう。 「人間にも自然にも命の営み」 「平和、安全、そして安心を… この記事は有料記事です。残り585文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル