2011年の東日本大震災が起きた当時、ぼくが住んでいた横浜市と故郷の福島県いわき市を直線距離で結ぶと約250キロでした。車や鉄道を使い、日帰りで行って帰れる距離です。
ただ、ぼくの家は3歳の双子(長女と長男)と1歳の次男を抱え、マイカーを持っていませんでした。ガソリン不足の実家に見舞いに行っても、かえって足手まといになる恐れがありました。
両親には「いつ横浜に避難してきてもいいからね」と伝えていました。両親は「今は大丈夫。けど、そうなったらよろしく」と話していました。
3月12日、東京電力福島第一原発1号機が水素爆発を起こしました。そして、14日に3号機、15日に4号機と爆発と見られる事象が続きました。14日には首都圏で電力不足による計画停電が始まりました。粉ミルクやミネラルウォーターの品不足も深刻化していました。ぼくには、事態はとめどなく悪化する流れに見えました。
その当時、ぼくは東京・築地の朝日新聞東京本社で働いていました。前年に立ち上げた課金サイト「WEBRONZA(現在の論座)」の仕事をしていました。ツイッターなどのSNSが注目され、大きな社会的役割を果たし始めていたころでした。
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- 実家の半壊や祖母の震災関連死。放射能の数値。そして両親は70歳代に――。東日本大震災の被災地である福島県いわき市に生まれ育った47歳の記者が、この10年間に故郷の農村と家族の身の回りに起きた出来事を、10回にわたってつづります。
このころ、考えたことがありま…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル